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2013年12月21日

政治をファンジン的文法で語る怖さ

アイドルやスポーツ選手が好きな人たちどうしで語り合うとき、言うまでもない前提として、対象であるアイドルなり選手・チームなりが至高の存在で、それに対する批判を差し挟む余地はないわけです。「○○ちゃんかわいい。だってかわいいから。」という循環論法が成立するわけです。こういうのをファンジン的文法、と一時期は呼んでいたものでした。

まぁそれはそれでいいのでしょうね。その人たちが好き勝手議論しているぶんには、外野の人たちに迷惑はかからないわけです。

経済活動でも同じようなことが言えます。みんなが自由に取引できればできるほど、満足度の最大化を実現できます。

しかし、外部不経済といって、経済活動の当事者間では便益が発生するものの、当事者たちの周囲にいる人たちが迷惑を蒙る可能性があります。いちばんわかりやすいのが工業化に伴う公害(大気汚染、水質汚染など)で、生産者と消費者の関係だけをみれば、最小の生産費用で最大のアウトプットを実現することが理想であるものの、その過程で出る排気や排水が工場の近隣住民に迷惑をかけるので、生産者と消費者という取引の「外側」も大事だよね、ということになります。だからこそ、政府が規制をかけるわけです。

さて、昨今の政治問題も、左~右、反原発~原発推進、みたいな形で二極化が進んでいるようです。こうなると、各極を支持する人たちの間で、ファンジン的文法が紛れ込んでくるような気がします。「○○議員の言っていることは正しい。だって○○議員が言っているんだから。」という議論が成立してしまうのです。

これは非常に危険なことだと思います。

アイドルやスポーツはエンターテイメントですから、個人で好きなエンターテイメントを消費する自由があります。嫌なら見なければいい、買わなければいいわけです。外部不経済もあまりないでしょう(CMで不愉快なものを見せつけられることがある、ってくらいでしょうか)。

しかし政治は外部性の塊のようなものです。たとえば日本の現在の為政者が嫌いであれば日本から出て行けばいい、のかもしれませんが、それがどれくらい現実的な行動選択でしょうか?あるアイドルが嫌いならファンクラブを脱退すればいい、ということとはずいぶんレベルが異なる話です。しかも政府の存在意義のひとつが外部不経済への対応であることからしても、政治や政党をアイドルやスポーツ選手と同じように扱うのはおかしな話です。

とはいえ、昨今の政治家・政党等に関する言説が、このファンジン的文法を帯びてきているように思えて仕方がありません。しかも、右も左も同じような傾向にあるような気がします。

政治とSNSの接近が理由でしょうか?まだ考えは煮詰まってないのですが、社会として少し考えていくべきテーマだろうな、と思います。


カテゴリ: Environmental policy,Media — Masa @ 11:05 AM