米国における高速道路計画手続発展の歴史*
松浦正浩
初期からインターステート高速道路プログラムの発生まで
米国の近代的高速道路計画のおこりは1916年に公共事業局(Bureau of Public Works)が設置されたことにはじまる。 同局はその後、連邦政府が運輸省(Department of Transportation)を1962年に組織化した際、高速道路庁(Federal Highway Administration)に発展した。1921年には、はじめて連邦高速道路法(Federal Highway Act)が通過し、連邦補助による高速道路整備が開始された38。
しかし、1956年の連邦補助高速道路法(Federal Aid Highway Act)の制定が、実質的な米国の高速道路時代の幕開けといえるだろう。アイゼンハワー政権の下通過したこの法律は、「インターステート及び防衛高速道路」プロジェクトを導入することとなる。全体として4万1千マイルの国家的高速道路ネットワークを当時の額で270億ドルをかけて整備するというプロジェクトである39。資金源について議論はあったものの、最終的にインターステート高速道路は通行料を徴収しない道路として計画された。同法と同時に制定された高速道路収入法(Highway Revenue Act)により、高速道路信託基金(Highway Trust Fund)が設置され、自動車の利用に関連する税、例えばガソリン税などによる収入がこの基金に託されることとなった。この基金は高速道路の建設と維持管理にのみ充当されることとされ、つまり税収の一部を高速道路関連プログラムにひもづけする(earmark)こととなった。これは米国議会の歴史の中で、税収の特定目的への割り当てを認めた最初の事例である(ただしこの基金はその後公共交通関連プロジェクトにも利用できることとなる)40。
このころは、高速道路整備を推進するロビイストは、米国政治社会の中で最も強大なロビイスト集団の一つであった。Altshulerらはその理由として以下の7つを挙げている41。
(略)
インターステート高速道路プロジェクトがうまれたころは、一般の人々は、これらが将来引き起こすこととなる環境問題について関心がなかった、もしくは確信を持っていなかった。むしろ、高速道路は彼らが夢見ていたアメリカン・ドリームの一部だったのである。
3C手続のはじまり
高速道路計画における市民意見の聴取は、1962年の連邦高速道路法(Federal Highway Act)に初めて見てとることができる。同法第9条では以下の通り述べている。
(略)
この義務は3C手続と呼ばれ、3つのキーワード(継続的[Continuing]、包括的[Comprehensive]、協力的[Cooperative])を省略したものとなっている。しかし、この法律ができた当時、3C義務の手続として、市民一般からの意見聴取は含まれていなかった。内部メモ50-2-63によれば「『協力的』とは連邦、州、自治体レベルの間の協力だけでなく、同レベルの行政機関に存在する諸省庁の連携も含む」と書いてある(つまり市民等は含まれていない)43。
省庁、自治体間の連携を高めるため、予算局は1969年に通達A−95を発している。この通達では州知事に対し、連邦補助事業について評価、具申するための地域的機関または協議会を設置することを求めている。いわゆるA−95組織は通常、自治体、計画部局、地域政策または準地域政策部局、公民権関連部局、環境管理部局を担当する公選官吏(elected officials)により構成されていた44。この組織には、市民から直接意見を吸い上げる義務は存在しなかったものの、これら選挙により選ばれる官吏に対して圧力をかけるという方法で、関心を持った市民が影響力を与える力を得ることとなる。
高速道路計画手続における直接市民参加は1968年に初めて義務づけられた。1968年の連邦高速道路法は、「提案された高速道路プロジェクトがもたらす経済、社会、環境への影響」について公聴会を1回開催することを義務付けた。これが連邦高速道路の計画手続におけるはじめての意見聴取の義務付けである。1969年はじめにはこの義務が拡大される。高速道路庁は政策及び手続メモ20-8を見直し、「概略路線(Corridor)公聴会」と「高速道路設計公聴会」の2つを開くことを義務付けた。しかしこれらの2つの公聴会手続では「市民関与の機会を十分与えなかっただけではなく、対話の雰囲気をより難しいものとした。」45
同年、3C手続は見直され、計画手続の全ての段階で市民参加を義務付けることとなる。この見直しは、1970年代中盤において実施されるより積極的な市民参画プログラムの礎となる。
国家環境保護法と大気清浄化法 −高速道路プロジェクトを中止させる影響力へ−
1970年には国家環境保護法(National Environmental Policy Act)が制定される。同法により、すべての連邦政府機関は環境を保全するという命題を授かった。連邦政府の行為において環境への影響を考慮するという立場を宣言したことに加え、同法では主要プロジェクトに環境影響評価(Environmental Impact Assessment)を義務付けた。図2−1、図2−2(略)が現在の手続(注:1998年当時)の概要である。もしあるプロジェクトが周囲の環境に著しい影響を与えると判断されれば、所轄省庁は環境影響評価書(Environmental Impact Statement)を用意する。
しかし、環境影響評価の手続を通じて発見された影響が根拠となり、プロジェクトが中止されることはまずなかった。むしろ、社会基盤プロジェクトに関心のある環境保護団体や市民団体が、環境影響評価手続を行政手続法、情報自由法と組み合わせて、プロジェクトを中止させる法的手段として利用した。1970年から1975年の間に、6,946の環境影響評価書が連邦政府により準備されたが、うち654件が訴訟へと持ち込まれている。運輸省は3,049件の環境影響評価書を用意し、うち172件が訴えられている。
裁判所は環境影響評価手続及び環境影響評価書の欠陥を理由に執行停止命令を出した。例えば、Daly v. Volpeの判例では、ワシントン州のインターステート高速道路90号プロジェクトに関する環境影響評価書を、事業位置による影響を適切に検討していないという理由で却下している46。裁判所は、州の高速道路省に評価書のやり直しを命じ、また事業の執行停止を命令した(この紛争は後にメディエーションによって解決された)47。また裁判所が評価書の内容を理由に却下することもあった。しかし、「レーガン、ブッシュ政権時の連邦最高裁の判決の結果、裁判所を通じて国家環境保護法を強制する仕組みが弱まった。」50
1970年の大気清浄化法改正は環境保護に向けた大きな進展であった。同法により環境保護庁(Environmental Protection Agency)が創設され、大気質の環境基準を定め、1975年中旬までにそれを達成することが同庁に求められた51。また、各州に基準達成に向けた州実施計画(State Implementation Plan)の制定を義務付けた。もし固定排出源のコントロールだけでは計画の達成が難しいと判断された場合は、州は交通コントロール計画(Transportation Control Plan)を策定する必要が生じた。
裁判所による大気浄化法遵守に関する司法判断は極めて厳格で、訴訟により環境保護庁が政策転換を図らざるを得ない状況に追い込まれたこともあった。Sierra Club v. Ruckelshausの判例では、交通コントロール計画の実現に向けて、環境保護庁が与えた2年間の猶予(大気浄化法が認める最大限)について最高裁が却下している。
しかし交通コントロール計画の強制、実現は連邦議会や州政府による対抗措置によって阻まれることとなる。個人所有の自動車利用を抑制しようとする措置、例えば駐車場料金への特別課税などは、連邦議会によって禁止された。
州実施計画及び交通コントロール計画は大気質全般に関係するものであるため、特定の高速道路プロジェクトを中止させるために大気浄化法そのものを利用することはできない。しかし、より厳しい基準を強制することにより、高速道路整備に反対する団体にとって後押しとなった。
ボストンのモラトリアム
1960年代中ごろ、都市住民および環境保護派がインターステート高速道路プロジェクトが社会的、物理的に及ぼす破壊的側面に対して反対運動を始めるようになった52。マサチューセッツ州サージェント知事による新規高速道路建設の一時凍結(モラトリアム)が高速道路反対運動の影響力の一側面をあらわしている。ある特定地域で、市民からの反対によりこれだけ多くの事業が中止されたのは米国史上初であった。このことが高速道路計画における最初の総合的な市民参加の取り組みへとつながる。
ボストンでは戦後、「住宅はすし詰め状態で、その多くが老朽化し基準を満たしていなかった。53」都市リニューアルの考え方が広まり、そしてその中では高速道路の整備が重要な役割を果たすこととなっていた。(州の)公共事業省はボストン都市圏の高速道路計画を1948年にすでに策定していた。1950年代半ばには、未整備の高速道路を連邦拠出によるインターステート事業に組み込み、財政負担を軽減しようとし始めていた。
1960年代半ばまでには、州道128号、中央動脈(Central Artery)、南東高速、北東高速、そしてマサチューセッツ・ターンパイクがすでに建設されていた。これらの事業は一部反対に遭ったものの、これらの事業の実現を阻むほどのものではなかった54。実現されるべき事業として主に4事業が残っていた:南西高速道路(インターステート95号)、インナー・ベルト(インターステート695号)、インターステート95号北部区間、そして州道2号の延伸である。
1960年代初め、ケンブリッジ市の市民は政治家によりモビライズされ、インナー・ベルト事業に対する反対運動を始めた。この事業によりこの地区の約1,500世帯が移転を求められることとなっていた。ケンブリッジ市はハーバード大学、マサチューセッツ工科大学を抱えており、これらの教育機関に在籍する都市計画および建築の専門家は地元のコミュニティ・グループとコネクションを持っていた。結果、これらの専門家が反対運動に加わり、コミュニティを支援し、そして事業の実現を阻むことに成功する56。
1966年、南西高速建設のためジャマイカ・プレーン地区、ロクスベリー地区で建物の取り壊しが始まった。地元住民はこれらの地域でも反対運動を始める。そのころには高速道路事業はジェームス・モーリイ、ジャスティン・グレイ、フレデリック・サルブッチ、ジョン・カルプといった高速道路反対のリーダーたちによって強く批判されていた57。彼らの主張は、1)事業により地区環境が破壊されること、2)予測手法に過ちがあったこと、であった58。翌年、アーバン・プランニング・エイドは「交通危機に関するボストン都市圏委員会」を設置した。これはインナーベルト、南西高速道路、インターステート95号北部区間に反対する活動家、コミュニティーの連合体で、MITやハーバードの専門家の支援を得ていた。この組織は独自の調査を行い、事業を批判した。
その後、この活動は技術的調査からより政治的なものへと移行する。1969年、GBCはタスク・フォースによる事業の評価を要求するさまざまなデモを行った。8月には、新たに選出されたサージェント知事がタスクフォースの考えを受け入れ、MITのアラン・アルトシューラーが委員長をつとめることとなる。このタスクフォースは高速道路事業にそれぞれ反対、賛成するコミュニティー団体および政府機関と話し合いを持った。計画の遅い段階で再調査することの効果について疑問があったものの、全ての事業について再調査が必要であるという委員会の結論が1970年の早い時期には出てきた。また、タスクフォースは、州道128号の内側の高速道路事業すべてを停止するという一時凍結を知事に提言した。2月には、知事が一時凍結を宣言し、事業の再調査を命じることとなる。
この手続はその後ボストン交通計画レビューにより引き継がれる。BTPRは参加型プロセスを取り入れ、事業を大きく変更することとなる。南西コリドーといった一部の事業については、公共交通事業へと変更された。
改善された3C手続 −都市圏計画機構と行政職員向けガイドブック−
(後日アップ)
*これは私の修士論文の一部を和訳したものです。引用される場合は下記の通りお願いします。
Matsuura, Masahiro. 1998. Highway Mediation in Japan: Its Prospects
and Pitfalls. MCP Thesis (Massachusetts Institute of Technology, Cambridge,
MA).
38. Weiner, E., Urban Transportaion Planning in the United States,
Praeger, NY, 1987, p. 2
39. Meyer, J., Autos, Transit, and Cities, Harvard Univ., Cambridge,
MA, 1981, p.7
40. Weiner, Op. cit.
41. Altshuler, A., Womack, J., and Pucher, J., The Urban Transportation
System: Politics and Policy Innovation, MIT Press, Cambridge, 1979,
pp. 28-31
43. Weiner, Op. Cit., p.20
44. National Wildlife Federation, The End of the Road: A Citizen's Guide
to Transportation Problemsolving, Washington, DC, 1977, p.88
45. Weiner, Op. Cit., pp. 38, 39
46. Daly v. Volpe, 350 F. Supp. 252, 1972
47. In 1976, the Office of Mediation at the University of Washington
became involved in the dispute, and parties reached an agreement taht
year. See, Patton, L. and Cormick, G., "Mediation and the NEPA
process: the Interstate 90 experience" in Environmental Impact
Analysis: Emerging Issues in Planning, Univ. of Illinois, Urbana, 1977.
50. Ortolano, L., Environmental Regulation and Impact Assessment, John
Wiley and Sons, NY, 1997, p. 324
51. Altshuler et al, Op. Cit., p. 184
52. Rose, M., Interstate: express highway politics, 1939-1989, Univ.
of Tennessee, 1990, pp. 101-108
53. Sloan, A., Citizen Participation in Transportation Planning: The
Boston Experience, Ballinger, Cambridge, MA, 1974, p.11
54. Sloan, Op. Cit., pp.20-21
56. Gaston, M., Community Participation in Boston's Southwest Corridor
Project: A Case Study, MCP Thesis, MIT, 1981, pp.68-73
57. Sloan, Op. Cit., p. 25
58. Sloan, Op. Cit., pp. 25-26
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