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Column #6: 説得の技術と交渉学の違い

(2000年ごろの記事)

誰もが、「自分以外の人が自分の思いのままに動いてくれたらいいよなぁ」って思いますよね。自分が王様だったらどうしよう、って誰もが想像するでしょ。

ただ、実際そんなことは絶対ありませんよね。だってみんながそう思ってるんですもの。誰もが自分の思い通りになればいいな、でもそうならないから困ったなぁ、と思うわけです。

子供は誰も、自分の思うがままに他の人を操りたい、と思うものです。いわゆる「大人になる」とは、他の人を自分の思うがままに操れないことを理解すること、ではないでしょうか。ストーカーなり、最近の少年犯罪なりは、大人になることができないのに、中途半端に武器と知識を得たコドモが起こしている事件と言えるでしょう。

さて、本題へ。他の人に自分が思うがままに動いてほしい、でもできないからどうしよう、と悩むのが大人でしょう。そこでの対処策には

1) 他の人に自分が思うがままに動いてもらうような手練手管を考える;

2) 他の人も、自分と同じように「自分の言いなりになってほしい」と思うことを許して、お互いが許し合える妥協点を考える;

の2つがあるわけです。

1)を目指せば、説得の技術を身につけようとするわけです。ここで有効なのは心理学の技術です。だいたい第二次大戦より前の時代では、国家なり社会なりを構築する上で、この説得の技術が何よりも重要なファクターでした。ナチスドイツのPR戦略は、現在のいかなる広告代理店のそれよりも優れていたのではないでしょうか。日本でさえ、軍部が漫画家を抱え込んだりすることで人の「ココロ」を掴むことに躍起になっていたわけです。

最近では新興宗教が1)を目指していると思われます。一部の宗教団体は、たぶん資金を得るためにいろいろな手練手管を用意しているわけです。「すばらしい人間になるためにはお布施しなさい」と言って、お金をもらったら、「あなたはすばらしい人間です」と言い、払った側も、貰った側も、お互い満足できればそれでひとつの交渉は成立です。ただここでいつも問題になるのが、お金を払わせる(=信者にさせる)ために、事前にあらゆる心理的な戦略がとられていることです。誰も、「あんたはすばらしい人間だ」と言われるだけのために大金を払おうとは思わないでしょうけど、事前に自分がダメ人間だ、という強迫観念を持たされていれば、大金を払う事もあるかもしれません。

ということで、どうも1)の戦略はわたしは好きではありません。しばらくは儲かるかもしれませんが、いつかは誰かに嫌われて復讐されるでしょう。命も惜しいですし。

やはり、自己満足をある程度あきらめて、自分と他の人とで一緒に何かして、自分もうれしいし、相手も嬉しい状況に持っていきたい、と考える2)の戦略の方がよい、とわたしは思います。

その一つの理由に「長期間にわたる便益」という考え方があります。短期的には、明らかに1)の戦略のほうがトクです。他の人を思うがままに操って、自分は利益をガッポシ、っていう策略ですね。でもそんなことは長続きしないのが現実ではないでしょうか? 宗教団体もあんまし長続きしないでしょ。法の華の代表(足裏診断)なんて、テレビでずいぶんもてはやされたのに、10年もたたないうちに、悪人扱いされてるでしょ。この件は、テレビ局(特に日テレ)が節操ない、っていう見方も正しいけど、やっぱし1)の戦略は長続きしない、という見方も正しいと思います。

やっぱ、誰も自分通りには動いてくれないんだから、あきらめて、お互いの特になるような何かを探すこと、すなわち2)のほうがいいんじゃないでしょうか。

2)の戦略こそが、交渉学です。

この前、マイブーム(!?)の特命リサーチ200Xを見てて、あれって交渉じゃなくて、説得の技術、すなわち1)について解説してるんじゃないか、って疑心暗鬼になったのでこんなコラムを書きました。あの番組のおかげでこのHPへのアクセスが急増したのでうれしいんだけど、どうもあの番組の内容が気になるなぁって思ったものでついつい書いてしまいました。

自分が番組に呼ばれなかったもんだから、いちゃもんつけてるんじゃないかって?  そうかも・・・(笑)。 でもあの番組、電通が噛んでるから同業他社に勤めてるってことで俺が出れなかったんじゃ・・・(ブツブツ)・・・