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2011年5月7日

「規模の経済」と「規模のリスク」

誰でも「規模の経済」の意味は知っているでしょう。生産規模を大きくすれば、1生産単位あたりの生産費用が縮減するという経済学の最も基本的な思想だと思います。産業革命以降、規模の経済の論理こそが、衣食住ありとあらゆる側面でグローバルな規格化(一律化)を推進し、現在となっては、世界中みんな似たような服を着て、似たようなメシを食って、そして似たような建物に住んでいるわけです。

規模の経済のみを前提とすれば、生産規模の拡大は絶え間なく続くでしょう。何でもかんでも、大量生産(マスプロダクション)が合理的選択となります。

電力供給についてもこれまで同じ論理で、システムが構築されてきたのではないでしょうか。少数の巨大原子力発電所により大量の電力を発生することで、品質やブランドによる差別化がほとんど起きない「電気」という商品を大量生産することは、規模の経済に適います。もちろん、原子力発電には放射性廃棄物の問題などの費用が伴いますが、放射性廃棄物も国内のどこか一箇所で集中的に大深度地下で管理することにより、(分散管理するのに比べて)規模の経済による恩恵を得られます。こうして、規模の経済の恩恵にあずかるべく、バックエンドまで含めた原子力発電という巨大システムが形成されてきたのでしょう。

この巨大システムへの信頼は、大津波という「想定外」の事態によって大きく損なわれました。

なぜ、規模の経済という合理的選択にもとづいて進められてきた電力システムの巨大化が頓挫したのでしょうか?やはり原子力にはスケールメリットがあって、今回のゴタゴタは一時的な政治的混乱に過ぎないのでしょうか?

私が考えるに、当たり前のことですが、規模の経済を追求すればシステムの巨大化につながり、結果としてアクター(ステークホルダー)の人数、組織数の巨大化へとつながります。このシステムが円滑に動いていれば、規模の経済という恩恵にあずかることができます。しかし、巨大システムには内在的リスクがあると言えないでしょうか。アクターの数が増えれば、コミュニケーションや指揮体系が複雑化するために情報の伝達や役割分担がシステムの想定どおり機能しなかったり、たった一人のアクターによるちょっとしたミスが連鎖的に巨大システムへと波及して甚大な被害をもたらしたり、さまざまなリスクが想定されます。また集合行為問題(Collective Action Problem)が発生し、モニタリングコストが莫大になるとともに、システム内のフリーライダー候補生も増えるでしょう。そして、生産拠点の数が限られるために1拠点での故障が大規模な被害をもたらす問題もあります。つまり、規模の経済が存在するとともに、規模のリスクも存在するのです(追記:要は規模の不経済なわけですがここではリスクに伴う費用として別立てで考えてみます)。

ここで、こんな図を考えて見ました。x軸に生産規模、y軸に1単位あたりの生産費用(単価)をとります。規模の経済を考えれば、生産規模を無限に拡大することで単価は縮減します。しかし同時に、規模のリスクだけを考えれば、生産規模が大きくなるにつれて、システム巨大化に伴う巨大システム障害の発生リスクが増加するために、右肩上がりの変数となるでしょう。ここで、規模の経済と規模のリスクを同時に考えると、どこかに費用最小化の「均衡解」があるはずです。

さて、原子力発電について考えてみましょう。これまで、私自身を含めて、原子力発電という規模のリスクをかなり低く見積もっていたのではないかと思います。

原子炉の運転に係る直接的リスクについては工学的手法で解決を図り、原子炉の改良が進められてきていますし、また、核燃料リサイクルまで含めても、すべて計画通りに動くのであれば、石炭などの化石燃料に比べればエネルギー源としてずっといいじゃないか、と思えます。実際にプロジェクトとして動かすときには、立地地域からの反対運動やそれに伴う許認可の遅れといった「投資リスク」が大きいわけですが、米国政府は気候変動対策として原子力発電を推進するために、この投資リスクを減らそうと、信用保証を出したり、許認可プロセスのストリームライン化を図ったりしてきました。ですので、投資リスクについても、政策的措置で対処しようがありました。

しかし、規模の経済に対抗する意味での「規模のリスク」について、原子力発電という巨大システムはどう、対応できるのでしょうか。

グローバル企業などのリスク管理については、これまでいろいろな手法が検討されてきて、実際にある程度機能しているのでしょう。こうして規模のリスクを縮減できれば、費用最小化の均衡解は右へ移動して、より大きな規模の組織がより大きな利益を出せるようになる(いわゆるグローバリゼーション)へとつながるのでしょう。

今回の原子力災害への対応として、巨大システムのリスク管理手法を導入することも一つの選択肢ではあるでしょう。たとえば、リダンダンシーを高めるためにコンピュータのサーバを分散配置するのと同じように、各都道府県に原子炉を1つ配置することにすれば、ある都道府県で何らかの災害等により原子炉を停止せざるを得ない状態に至ったとしても、電力供給が急減することはないでしょう。これは極端な喩ですが、原子力発電を維持するのであれば、システム全体を俯瞰した大胆なリスク管理対策が今後必要になるでしょう。東京電力管内の電力供給の1/3を福島県双葉郡と新潟県柏崎市・刈羽村という非常に限られた地理的空間に依存していることは、システムとしてのリスク管理が不十分じゃないかという気もします。ただし、リスク管理の対策を施すことで生産費用が増加するために、他の発電手段との比較優位を失う可能性があります。とはいえ、CO2排出削減も必要ないま、火力発電を増やすことも無条件で許容できるものではなく、どこでバランスをとるのかが大変悩ましい問題です。これは今後、冷静に検討が必要な分野だと思います。

もう一つの考え方は、電力の発電・送電・配電というシステム全体を見通して、規模のリスクの大きさについて再認識したうえで、エネルギー政策の方向転換を図ることもできるでしょう。スケールメリット追求の弊害は、今回の原子力災害だけでなく、北米でときどき起きる大規模停電にも見られます。発電手段それぞれの特性はとりあえずおいといて、電力供給の規模のリスクが実は大きいと考えれば、費用最小化の均衡解は左に移動する、つまり小規模で分散型の電力システムが最適解となります。いわゆるマイクログリッドや、発電の分散化を前提としたスマートグリッドなどが最適解ということなのでしょう。日本にとってこれらが本当に正しい選択かどうかについては、私自身判断がつきませんが、規模のリスクが大きいと考えるのであれば、これらは合理的選択であるとは言い切れます。

ということで、「規模のリスク」について考えることが、今後の原子力発電の行く末、電力に係るエネルギー政策の鍵になるのかな、と思った次第です。


カテゴリ: Environmental policy,Public policy,Science/Technology Policy — Masa @ 10:04 PM

 

2011年4月20日

まちづくりあってこそのエネルギー計画、そして原発の行方

饗庭先生のこのポストに影響されて、久々にブログなんてもの書いてみます。ほんとはもっと、ブログで思考を整理して呈示するのが学者の仕事なんでしょうが、「ツイッタ~、は~じめました~(AMEMIYA風に唄え)」なもので、思い付いたことをその場で呟き散らすようになってしまい、ブログで思考をある程度整理し、記述する癖が失せてきています。よくありませんね。

さて本題。饗庭先生は結論で「都市計画は下位の計画である 最後に、都市計画はやっぱりツールなので、そもそも原発がいるかいらないかの議論には向いていません。」と書いてますが、ここが私は一番気になっているところ。反発しているわけではないのですが、「都市計画」の意味を手段に限定してしまうことへの違和感です。

まず、原子力発電は「目的」ではなく「手段」です。ですので、所期の目的を達成するために、エネルギー源のプロファイルの中に原子力発電をどのように位置づけるか(あるいはそもそも位置づけないか)を総合的に議論する必要があるでしょう。

その単位ですが、饗庭先生は国際的な観点でとおっしゃっていますが、現実は国単位でのガバナンスとなります。安全基準などの国際ハーモナイゼーションなどは進められるでしょうが、政策の根幹は主権国家が決めることです。兵器転用の可能性が出てくると別ですが、平和利用の範囲ではIAEAなどの枠組みの下で国家が大きな裁量をもって政策を決めることが前提かと思います。ですので、日本においても、エネルギー政策における原子力発電の位置づけについては、日本政府(ひいては国民)が決めることになります。

実際、2010年閣議決定の「エネルギー基本計画」では、「原子力発電の推進」として、2020年までに9基新設、設備利用率85%、2030年までに少なくとも14基の新増設、設備利用率90%という目標が明記されています。これを根拠に、新たな原子炉が次々と建設され、必要に応じて発電所の新規立地が進められているわけです。誤解を受けやすい言い方を敢えてすれば、東電などの電力各社は、国民に選ばれた政府の計画にしたがって原子力を推進している、とも言えます。

では、エネルギー基本計画はいかにして形成されるものでしょうか。根拠法としてはエネルギー政策基本法があり、総合資源エネルギー調査会の専門部会において案が検討され、閣議決定されるものです。実質的には経済産業省がお守りをしているといっていいでしょう。

ここに、産・官・学の鉄のトライアングルがあって、原子力推進の方向性が・・・というような批判も十二分にあり得るとは思うのですが、もう少しナイーブに考えてみたいと思います。エネルギー基本計画の入力変数、すなわち検討にあたっての所与の条件としては、国の経済成長見通しや政策、エネルギー資源のavailability、地球温暖化対策への要請・・・などがあります。

ここで、エネルギー政策の大枠を決めている、国の経済成長の方向性(すなわちエネルギー需要の量と質)、あるいは地球温暖化対策のあり方は、「都市計画」にも密接に関係があるのではないでしょうか?

経済成長を考えるとき、従来どおり製造業中心の産業国家を狙うのか、あるいは知識産業に特化した国家への転換を狙うのか?コンパクトシティで効率化を目指すのか、あるいは過疎集落を活性化してコモンズ依存の地域社会を復活させるのか?温暖化対策としての適応策を都市としてどのように実現するのか?

このような問題は、広い意味での都市計画の課題だと、私は思います。もちろん、「都市計画」ではなく、国土計画、地域計画と呼ばれるものが、上記の問いに対応しているのかもしれません(私の認識では、都市計画も国土計画も地域計画も本質的には同じ分野のものととらえています)。

ですから、都市計画を通じて、日本人がどのような都市/国土・産業・環境を目指すのか、そしてその結果として、エネルギー需要の量と質が規定されることによって、エネルギー政策の大きな枠組みが決まるのです。

ある特定の自治体の都市計画によってそんな大所高所のことまで影響が及ばないのは事実でしょうが、各自治体での実践が相互に影響を与え合い、新たな都市論が形成され、全国へと拡散していくなどの相互作用を経て、各自治体の計画を全国的に積み上げて形成される日本の「都市像」が、エネルギー需要の決定要因のひとつであると言えないでしょうか。

もちろん、エネルギー政策を所与のものとして、ある特定の都市計画の最適化を図ることもできるでしょう。しかし、エネルギー政策も、(個別の都市計画の集合体としての)都市計画のインプットがあってはじめて成立するものなのです。

結論としては、エネルギー政策と(広義の)都市計画、どちらかが上位にあるのではなく、むしろ相互に影響を与え合いながら進化していくものだと思います。ここではエネルギー政策と都市計画を論じましたが、経済政策、自然環境政策、農林水産政策、などさまざまな政策が相互作用を経ながら進化していくべきものでしょう。今回の原子力災害を契機に、エネルギー政策が大きく見直されることになるでしょうが、その結果を待ってから他の政策領域が動き出すのではなく、エネルギー政策を機軸にしつつ、都市計画、経済、環境、農林水産などの多様な分野が参画し、相互に影響を与え合いながら、今回の経験と反省に基づき、政策・計画を進化させていくことが必要なのだと思います。


カテゴリ: Environmental policy,Urban planning — Masa @ 3:55 PM

 

2011年3月23日

災害復興に向けて都市計画研究者はいかに関わるかⅡ

今日はわが師匠、マサチューセッツ工科大のLawrence Susskind先生に、災害復興に関してアドバイスを乞いました。

曰く、collaborative and adaptive cityをつくっていく必要がある、とのこと。町を設計するのではなくて、刻々と変化していく環境に地域の人々が適応しながら修正できる都市をつくっていくべきだろう、とのことです。

そのためには、地域の人々に、周囲の環境にあわせて自分たちの町をつくりあげていくスキルを身につけてもらうこと、そのための最初の一歩のプロセス面での支援を与えることが、いま、プランナーに求められることだろう、とのことでした。

結局、外からやってきた人間が理想都市をつくったり懐古風の街並みを再現するのではなく、そこに住み続ける人々自身が、都市の順応的管理を納得できる形で行っていくキャパシティと仕組みをつくること、がわれわれの仕事なのかもしれません。住民のみなさんが話し合って納得できる形で柔軟な都市を形成できるような制度設計がいまわれわれに求められているのでしょう。

地震災害だけでなく、今後、地球規模での気候変動や、大規模な経済構造の変革が頻繁に起きることを想定すると、住宅など最低限のインフラ整備以上の都市整備は、一気に復興するのではなく、自然だけでなく社会経済の環境変化に柔軟な対応できるような余裕を残しておいて、さらに住民自身が今後自分たちで変えられるような仕組みをつくっておく必要があるのでしょう。