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2014年1月31日

「キャラクター祭り」化する社会~万能細胞の発見者の報道

いまだにiPS細胞と万能細胞の違いもよくわかっていないヘッポコ研究者な自分でありますが、今回の報道に関していろいろ異論が出てきているようなので、俄に関心が湧いて参りました。

どうやら、今回発見したというプロジェクトリーダーが30歳の女性で割烹着を着ている(普段から?)など、なかなかのキャラの持ち主として報道された模様。「そんなこと報道してる場合じゃないだろ」というインテリジェント層(笑)からのツッコミが多数寄せられた模様ではありますが、やはり記者の目はまず、研究者の「キャラ」に行ってしまうというのも事実。そして記者の目は、社会の好奇心をある程度は反映しているというのも、また事実。

そういえばiPS細胞のときも、科学としての意味や社会にもたらす影響などはさておき、山中教授の「キャラ」に着目されたような記憶が。マラソンが趣味だとか、学界でmarginalizeされて凹んでたとか、そういう個人の特徴や生い立ちなどが、社会の好奇の目に晒されるわけです。

まぁそういう報道を止めろ、っていったって、世間が好奇の目を向けている以上は変わらないでしょう。むしろ怖いのは、そういう「キャラ」を前面に打ち出すことが一種の生き残り戦略として敷衍することではないかと思うわけです。

スポーツ選手だって、ストイックに練習して試合に勝つことだけを目指すんじゃなくて、テレビのトーク番組で「おもしろおかしく」話ができるような人たちが、世間の耳目を集めるようになってきてる気がします。競技種目も増えすぎたものだから、各種目の中で強い弱いで争ってもスポンサーも観客も寄り付かず、むしろ自分の「キャラ」を際立たせることで、まずは自分が所属する競技への関心を高めることが必要になってきてるのかもしれません。

そういえば、以前、ウッチャンナンチャンの内村の番組で「キャラクター祭り」という企画があったというのをどこぞの記事で読んで辟易した記憶があります。設定された「キャラクター」そのものの滑稽さが前面に出ているということは、要は、脚本・ストーリーのおもしろさと創作性は不問にされているわけです。おもしろい「キャラクター」をつれてきて、あとはその場でおもしろい空気をつくっちゃえばいいんだ、という創作性の放棄を感じるわけです。とはいえ、即興劇を上手に演出するというスキルもあるでしょうから、一概に否定するのもよくないかもしれませんが。

いずれにせよ、そういう「キャラクター祭り」という体裁で情報を受け取ることが、社会の主流になりつつあるんじゃないかという気がするわけです。

スポーツに関する情報も、従来の「中継」や「結果速報」から、選手のトーク(競技と無関係な情報含む)中心へと移行した、つまり「キャラクター祭り」の体裁で社会が受け取る方向へと、大きく変容してきたんだと思います。

政治についての情報もそうかもしれません。石破幹事長や麻生財務相の「キャラ」に対する人気は現政権の支持の一翼を担っているようにも思えます。

こう考えると、科学技術についての情報も、「キャラ」を主軸として消費される世界が近づいているのかもしれません。明石家さんまが「研究者(笑)」をネタにイジる番組をやっているようですが、「キャラ」の発掘において先見の明がある明石家さんまのことだから、「大学のセンセイっておもろいでぇ」と見定めたのかもしれません。

まぁもちろん、試合で優勝したり、世紀の大発見をしたり、政治力を持っていたりする人たちだからこそ、本来副次的な情報である「キャラ」に着目されるのでしょうが、未来の社会において実体よりも「キャラ」が先行するようになると、なんか恐ろしい気もします。そんなことないよ、という人も多いでしょうが、そんなことがあるかもしれません。

 


カテゴリ: Media,Science/Technology Policy — Masa @ 1:04 PM

 

2013年12月21日

政治をファンジン的文法で語る怖さ

アイドルやスポーツ選手が好きな人たちどうしで語り合うとき、言うまでもない前提として、対象であるアイドルなり選手・チームなりが至高の存在で、それに対する批判を差し挟む余地はないわけです。「○○ちゃんかわいい。だってかわいいから。」という循環論法が成立するわけです。こういうのをファンジン的文法、と一時期は呼んでいたものでした。

まぁそれはそれでいいのでしょうね。その人たちが好き勝手議論しているぶんには、外野の人たちに迷惑はかからないわけです。

経済活動でも同じようなことが言えます。みんなが自由に取引できればできるほど、満足度の最大化を実現できます。

しかし、外部不経済といって、経済活動の当事者間では便益が発生するものの、当事者たちの周囲にいる人たちが迷惑を蒙る可能性があります。いちばんわかりやすいのが工業化に伴う公害(大気汚染、水質汚染など)で、生産者と消費者の関係だけをみれば、最小の生産費用で最大のアウトプットを実現することが理想であるものの、その過程で出る排気や排水が工場の近隣住民に迷惑をかけるので、生産者と消費者という取引の「外側」も大事だよね、ということになります。だからこそ、政府が規制をかけるわけです。

さて、昨今の政治問題も、左~右、反原発~原発推進、みたいな形で二極化が進んでいるようです。こうなると、各極を支持する人たちの間で、ファンジン的文法が紛れ込んでくるような気がします。「○○議員の言っていることは正しい。だって○○議員が言っているんだから。」という議論が成立してしまうのです。

これは非常に危険なことだと思います。

アイドルやスポーツはエンターテイメントですから、個人で好きなエンターテイメントを消費する自由があります。嫌なら見なければいい、買わなければいいわけです。外部不経済もあまりないでしょう(CMで不愉快なものを見せつけられることがある、ってくらいでしょうか)。

しかし政治は外部性の塊のようなものです。たとえば日本の現在の為政者が嫌いであれば日本から出て行けばいい、のかもしれませんが、それがどれくらい現実的な行動選択でしょうか?あるアイドルが嫌いならファンクラブを脱退すればいい、ということとはずいぶんレベルが異なる話です。しかも政府の存在意義のひとつが外部不経済への対応であることからしても、政治や政党をアイドルやスポーツ選手と同じように扱うのはおかしな話です。

とはいえ、昨今の政治家・政党等に関する言説が、このファンジン的文法を帯びてきているように思えて仕方がありません。しかも、右も左も同じような傾向にあるような気がします。

政治とSNSの接近が理由でしょうか?まだ考えは煮詰まってないのですが、社会として少し考えていくべきテーマだろうな、と思います。


カテゴリ: Environmental policy,Media — Masa @ 11:05 AM

 

2013年8月1日

不思議な新聞記事

「女性の裸興味あった」医師、スマホで盗撮疑い : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞).

この記事、なんとなく、違和感があるんですよね。

一つ目が「女性の裸興味あった」の表題と本文。そりゃ、男なら、女性の裸に興味はあるでしょうさ。まぁ警察からの情報が「女性の裸興味あった」なのでそのまま掲載したということなのかもしれませんが、そんな情報は全く必要ないでしょうに。この表題だけ見ると、風呂場を覗いたんだろうな、と思わせるわけですが、実際は駅でスカート内を盗撮した容疑だそうです。デスクがミスリードを意図してこんな表題にしたのかもしれませんね。

二つ目が「スマートフォン(高機能携帯電話)で動画撮影」という表現。いまどきスマートフォンを知らない人なんていないでしょうから、敢えて括弧書きで高機能携帯電話なんて表記する理由はないでしょう。もちろん、スマートフォンなんて知らない高齢者向けの配慮だ、というのかもしれませんが、そういう人たちならば、「高機能携帯電話」と言われても、何のことだかわからないんじゃないでしょうか。

たいしたことではありませんが、言説分析の練習みたいなつもりで、メモしときます。

追記
考えてみたら、医師が「女性の裸に興味がある」ことも非難しているんですね。医師は女性の裸を見る機会もあるでしょう。だからこそ敢えて「女性の裸興味あった」と記載することで、「そういう目で患者を診ていたイヤらしい医師なんだよ、この容疑者は」って言説を構築する意図がどこかにあるのでしょう。しかし容疑自体はスカート内の盗撮なわけで、女性の裸に興味あることとは実はあまり関係ないのですよね。それでも、あえて「女性の裸興味あった」と記すことには、やはりこの医師、あるいは医師全般に対する何らかの感情を、新聞社のデスク、記者、そして読者も持っているんじゃないかと思われるわけです。


カテゴリ: Media — Masa @ 11:05 AM