2020年6月9日
いやほんと、今日はビックリしましたよ。
小職が東大の公共政策大学院で10年以上担当している科目「交渉と合意」。交渉分析の基礎と政策形成への応用をお話ししているのですが、今日は6者間での公共事業に関する合意形成模擬交渉。
「ハーボコ」という教材で、小職のMITの師匠が制作した教材なんですが、利害調整の論点が5つもあって、しかも各役割の利害が複雑に入り組んでいるのに、授業時間内の1時間半で合意形成を図る必要があり、さらにちょっとしたトリックも仕組まれていて・・・
という、なかなかスリリングな演習です。この講義を受講した修了生のみなさんのなかには、この演習のことを忘れずに覚えている人も多いと思います。
で、何がビックリしたかといえば、今日はオンラインでやったわけです。
ZOOMでブレークアウトルーム機能をつかって原則6人1組(3グループ)に分かれて演習に参加してもらったんですね。
オンラインだからコミュニケーションがうまくとれないだろうなぁ、6者間なんて話し合いになるのかなぁ、と、やってみるまではドキドキでした。実際、ブレークアウトルーム機能が想定通り機能せず、講義開始直後にいったん全員にログオフしてもらって再度立ち上げなおすといったトラブルに見舞われたほど。
ですが、3グループのうち、2グループがなんと1時間程度で6者間合意に到達してしまったのです!
通常であれば1時間半かかる演習が2/3の時間で合意に達してしまう、しかも例外的ではなく3事例のうち2事例、しかも覗き見していた感じ、特になにか「凄い」進行が行われていたような感じではないグループで、短時間で合意形成成功とは・・・。
これはZOOMというかテレビ会議の可能性を示唆しているような気がします。いちどnegotiation journalあたりで既往研究がないかどうかチェックしたいのですが、マルチステークホルダーの合意形成をオンライン会議にすると、時間の効率化が図られるのかも。とはいえ逆に、議論の質がどうだったかの検証も必要なんですがね。
コロナ禍は多者間交渉を大きく変えるトリガーなのかもしれない、と思うと鳥肌ザワザワした午後でした。
2019年10月15日
「他人の得が許せない」人々が増加中 心に潜む「苦しみ」を読み解く
この記事を読んでみて、なんか不思議だなぁ、と思った次第。
というのも、僕が専門としている「交渉」の暗黙の了解として、各当事者、自己の利益を最大化するために行動するっていう前提があるわけです。しかし実際は、猿だって利他的な行動をするんだから、そもそも自己利益最大化って前提自体がおかしいじゃないか、って問題提起があっちこっちから出てきてるわけです。
という状況のなかで今度は、(自己の利益とは無関係に)他人の利益を減少させるために行動する、っていう新たなパターンもあるのか、ってふと、思いました。妬みみたいなものですね。
他人が得するのが許せないので、それを妨害しようとする行動に出るって、どうなんでしょう?
妨害することで自分の利益が増えるのであれば、結局は、きわめて不寛容ですが、自己利益最大化行動なので、合理的なのかもしれません。記事に出てくる事例、たとえばアンジェリーナジョリーのサイン貰うトラブルってストーリーも、他者がサインをもらったからムカつくというのですが、その他者が存在しなければ自分がサインを貰えた確率が高まるという判断でムカついているのであれば、合理的な判断かもしれません。
他方、自己の利益増加とは無関係に、他者の利益を妬む心理っていうのも、わかるっちゃわかるんですが、それって何なんでしょうね?要は足を引きずるってこと。自分には何の得にもならないどころか、邪魔をするコストを考えれば損失も発生しているかも。
もしかして、「負けた」って自分の感情を打ち消すために他者の足を引っ張るのであれば、まぁ合理的なのかもしれない。ヒドイ奴ですけどね。
あるいは打算や感情抜きで、自分の中で勝手に思い込んでる「規範(ルール)」に反するから、それを押し付けようとしているのかもしれません。もしそうなのだとしたら、研究としても興味深いもので、「熟議(deliberation)」ってそういう規範を間主体的に形成するために必要だという議論があるわけです。もしも個々人が好き勝手に「規範」をつくってしまったら、それはそもそも規範じゃないんじゃないの、と思うわけです。しかし個人の中では規範というか正義というかルールだと信じ切っているので、それと齟齬のある行動は罰しなければならない、と他者に邪魔をしたくなってしまうのかもしれません。悪い意味で風紀委員会のヒトみたいでなんかウザいですが、そういうのが増えてきてるのかもしれませんね。だって「正義」なんですもの。ネットの世界で、嫌いな人を遮断して好きな人たちとだけつきあっていると、そういうおかしな規範意識ができあがって、ウザいだけの人間ができあがってしまうのかもしれませんね。
結局、SNSのいいね、とブロック機能がクソなのでしょうか。
どうしたらよいのでしょう。新約聖書では妬みやそしりが戒められていますが・・・解決策をスピ系に求めちゃうっていうのも、どうでしょうね・・・(冒頭の記事もそっち系をオチにしてるんですが)。
2014年5月30日
Jonathan Haidtの”The Righteous Mind: Why Good People are Divided by Politics and Religion”を最近読んでからというもの、けっこう影響を受けているわけです。
で、この本の中で、道徳心理学(moral psychology)の実験が例示されています。人間が倫理にまつわる難しい問いかけをされたときに、いくら反証を出されても、自分の結論をなかなか変えようとしないし、反証されて追い込まれれば追い込まれるほど「それってとにかく違和感あるから許せない」みたいな回答しかできなくなるそうです。
この事例をもとに、人間がモラルに関する判断をするときには、自分の理性に問いかけて判断をだしているのではなく、むしろ瞬間的に脳内で判断が行われた後でそれを正当化するための理由を考えているのかもしれないということが指摘されているようです(私の誤読でなければよいのですが・・・)。
もしこの仮説が正しければ、現実問題として、モラルに関する論争が存在するとき、この論争で相対する当事者たちが、お互いにそれぞれの主張を理論づけて対話したとしても、何らかの和解や相互理解につながるはずはないということになります。論理をもって相手を説得しようとしても、そしてたとえ相手の論理を完全に棄却することができたとしても、お相手は、自分の判断を正当化するために別の論拠を探しに行くだけです。脳内で「判断」が先にできあがってしまっているのですから、後づけの「論理」をいくら否定しても、「判断」は変わらないわけです。
そうなると、いわゆる熟議(deliberation)なるもの、つまりモラルに関する論争を、相互の理性に訴えかける対話を通じて何らかの合意にいたらしめる可能性を否定しているようにも思えます(もちろん二項対立型の論争が存在しない状況、つまり「判断」ができあがっていない状況については、熟議は可能なのかもしれません)。
結果として、異なるモラルの下で結集する人々の間で永遠にたたかいを続けるしかないという、なんというか、ファシズムの政治思想につながりそうな気もします。実際、Wikipediaで見てみたら、Haidt氏はそういう理由で批判されているようです。
しかしよく読んでみると、この本は、そういうシニカルな結論で終わらせていないと思います。彼が言いたいのは、「論理」で相手を説得しようとしても無駄なんだから、相手の「判断」に対して直接訴えかけないといけないんだよ、ということなんじゃないかと思います。
実際、それぞれの人の脳内にある「判断」は、絶対に変わらないものじゃなくて、状況によって変わるものだそうです。これは以前読んだ藤井先生の本でも指摘されていることかと思います。
じゃぁ、どういう状況になれば、人間が「判断」を下す回路が柔軟になって、再構築を促すことができるのでしょうか?
いま自分が関心があるのがこの問題で、この「判断の回路をやわらかくする介入」を実用的な工程として定式化できれば、いろんな対話の場面で有用じゃないでしょうか。
それこそ、このステップを踏めないと、モラル論争に対応できる熟議など不可能じゃないかとも思えてきています。もしかすると、地域紛争でさえも、解決の糸口が見えてくるかもしれません。
では、どういう「工程」があり得るでしょうか?ひとつの着想としては、Kurt LewinやEd Scheinの組織変革(organizational change)の3ステップが援用できるかなと考えています。彼らは、組織を変えるためには、unfreeze -> change -> (re)freezeという3ステップが必要だと言っています。いちばんの鍵はunfreezeのステップで、まず、組織内部の人たちが自分の組織の現状には問題があることを認める(彼らに認めさせる)ことから、組織変革が始まるそうです。この「自分たちが間違っている(かもしれない)ことを認める」という大きな壁を越えることは、まさに、自分の「判断の回路をやわらかくする」ことに近いのではないかと思います。他にもいろいろな手段はあると思いますので、いろいろな先行事例を学ばせていただいて、援用していきたいなぁと漠然と考えています。
いずれにせよ、この「判断」という謎の領域こそが、これからの合意形成を考える上でのフロンティアなのではないかと思います。