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2016年8月16日

ボストン警察はメディエーション(調停・ADR)プログラムが存在するも利用せず

Boston officers say no to mediation program | Boston Globe

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日本と違って警察は市町村や郡の管轄なのが米国。ということでボストン市はボストン警察が所管となります。あと、大学の敷地内は各大学独自の警察の管轄です。

で、ボストンの警察官のちょっとしたいざこざ(言葉遣いが悪いとか乱暴とか)についての市民からのクレームは、時間と手間をかけて法的に処理をするのではなく、非公式な紛争解決手続きで迅速に処理しましょう、ということでメディエーション・プログラムが導入されたそうです。警官と市民とが調停人立会いのもと、直接話し合って解決策を見つけましょう、というプログラム。

しかし、240件のクレームがあるものの、これまでにメディエーションで処理された事例はなんとゼロ件。120件がメディエーションで処理しうると判定されたものの、警察の総務部局がメディエーションに係属した案件は15件。さらに10件は当事者の警官が拒否、残り5件は当事者の警官がまだ同意していないとのこと。

メディエーション(非公式な紛争解決)という以上、当事者間の同意が存在してはじめて成立するわけです。しかし、警察(警官)の側が同意しない以上、プロセスは成立しません。誰が何と言おうと、当事者至上主義なわけです。

任意の紛争解決プロセスを強制しようとすれば論理的に破綻しています。ということは、その「任意のプロセス」を利用したいという動機づけ、信頼感みたいなものが肝心になるわけです。

で、警官が信用しないこのボストン警察のメディエーション・プログラム。なんでかなーといろいろ考えてみたんですが、僕が思うに、このプログラムがハーバード・ロースクールの学生たちが運営するHarvard Mediation Programによって実質的に運営されているからじゃないかな、と思うわけです。いつもダンキンのドーナツとコーヒー飲んで、拳銃持ったギャング相手に命かけてる警官たちが、ハーバードのお坊っちゃまお嬢ちゃまに、モメゴトの調停を依頼するとはとても思えないわけですよ。ハーバード大の所在地であるお上品でリベラルなケンブリッジ市の警察ならまだしも、良くも悪くも人種の坩堝で事件も多いボストンですからね。

記事だけ見ると、ボストン警察の警官は偏狭だ、と感じるような気もするわけですが、任意の紛争解決プロセスは、最後まで任意である以上、誰がそのプロセスの行司をするのか、そして当事者がその行司に委ねる気になれるのか、がゼッタイ的な必要条件である以上、そもそもハーバード・ローの学生連中が仕切るプログラムを設計した時点で失敗が確定していた、という気もします。


カテゴリ: American politics,Consensus Building,Massachusetts — Masa @ 8:12 PM

 

2016年6月8日

留学生にとってのトーキョーの住みづらさ

さきほど、留学生向けのファシリテーション講義で、東京の住みづらいところについて意見集約するという実演をやってみました。

明らかに第一位は「言葉の壁」。学内はともかく、日常生活でかなり困ってるとのこと。自分たちは日本語わからないけど、東京の人たちも英語も母国語も話せない。いろんな説明も日本語だけ。こりゃほんと、困った問題ですね。それに関連して、「人々とのコミュニケーション」も問題のようです。これは言葉だけじゃなくて、気軽に会話できない壁を感じているようです。確かに、日本の人って、見知らぬ人と会話ができないですよね。

他には、高い生活費、生活環境(わかりにくくて混雑してる公共交通、ごみ箱が街にないなど)、食事(ハラル、酒など)、母国との気候の違いなどが挙がっていました。

日本スゴいみたいなテレビ番組多いですが、「国際化」するならば、まだまだ、できるところから改善してかなきゃいかんですな。

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カテゴリ: Consensus Building,Tokyo — Masa-mobile @ 4:06 PM

 

2014年10月10日

分断による紛争解決がもたらすアイデンティティ対立

いまある雑誌を読んでいたら、喫煙に関する紛争解決の方法論として、分断による処理が示されていました。要は分煙のことで、喫煙者と非喫煙者を完全に分離してしまえば、経済学でいう外部不経済がなくなるので、紛争が解決されるということです。

これは現実社会の諸相に見られる解決策で、たとえば、都市のコミュニティが多様な特徴を持つこと、いわば「棲み分け」もその一例でしょう。そうか、棲み分けは人間だけじゃなくていろんな生物が体得している生存戦略ですので、紛争の当事者がお互い顔を合わせなくするというのは、とてもrobustな戦略なのでしょう。

しかしこれにも限度があることは言うまでもありません。気の合う人だけでコミュニティをつくろうとしたら、極小規模のコミュニティをとんでもない数、独立して存在させなければなりません。しかしそれぞれのコミュニティの生存のために必要最低限の規模があるでしょうから、極小規模のコミュニティは自滅してしまいます(新興宗教集団が尖鋭化するとともに構成員が減ってなって自滅するようなもの)。

さて、日本の現状を省みるに、極小規模のコミュニティが急増しているのかもしれません。ツイッターもそうですが、ネット社会というやつでは、気の合わない連中を容易に「ブロック」できます。ブロックされた人も、(中学校のいじめ問題とは違って)、ネットでは自分を受け入れてくれるコミュニティを容易に見つけられます。

こうしてコミュニティはどんどん、小さくなってきているのでしょう。

もちろん、それは紛争解決のために、とてもrobustな手段を用いていると評価できます。

しかし、現実社会では、大半の人が、日本政府の統治下で生活しています。地域のなかでも、いろいろな人たちが、いろいろな仕事を通じて、互恵関係に基づく経済生産に関与しています。家族の中だって、ネットで分断されていても、同じ屋根の下で生活しているわけです。

ここでどうしても歪みが生じてしまうのでしょう。つまり、ネットは分断による紛争解決を可能としたわけですが、実際の現実社会では隣人が物理的に存在するわけで、外部不経済をどうしてもお互いにもたらしてしまうのです。

いわゆるネトウヨ問題、現代的な相隣紛争(保育所のNIMBY化など)、青年による親の殺害事件などの多くが、この「ズレ」に起因しているようにも思えてきます。

ネットは、心の同志による「ユートピア」の可能性を切り拓いてくれはしましたが、現実社会に「ユートピア」をもたらしてくれるわけでは、まだまだなさそうです。


カテゴリ: Consensus Building — admin @ 9:42 AM