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2015年5月25日

補助金による実証事業のスケールアップの難しさ

1)現場レベルでなにか先進的な取り組みが行われる
2)学者や著名人が講演などで先進事例だと持ち上げる
3)政治家やコンサルが寄ってたかって視察に来ては是非真似しましょうと騒ぎ立てる
というのが日本のムラのボトムアップなイノベーションの成長(膨張)過程の典型パターンじゃないでしょうか。

そして、
4)別のムラで真似しようしても、事業がうまくいかず破綻して、補助金で買った機械だけが残る
というのが典型的なオチでしょう。

なんでこういうふうになるのでしょう。最初の「成功事例」は、そのムラの文脈に適した形で事業が設計されたから成功したのであって、他のムラに技術や制度を表面的に移転しても、他のムラの文脈と適合しないから、当初のムラのように機能しない、というのが一般的な解釈かと思います。これは政策移転論で説明がつきます。

とはいえ、イノベーティブな取り組みをいかに拡大横展開できるのか、は環境政策の文脈ではいま、いちばん難しい課題となってきているように思えます。特に、欧州でそのような議論が盛んになってきているようで、身の回りでもそういう議論が欧州からよく聞こえるようになってきました。

日本のこれまでの補助金政策を見ているとシニカルにとらえざるを得ない感じもしますが、シニカルなスタンスで否定しつづけていても前に進まないでしょう。

自分自身は最近、交渉による合意のオルタナティブとして、トランジション・マネジメントに関心を持っていますが、その議論なかでも、トランジションに向けたニッチ技術の小規模実証実験のあとで、その結果を使っていかに制度化して横展開していくか、その部分が難しいポイントとして指摘されています。逆に小規模な実験を立ち上げるところまでは、意外と容易なようにも思えます。

日本の補助金事例も、失敗はいくらでもあるでしょうが、むしろ成功させるためのコツがどこにあるのか、精神論ではなくて制度的かつ実証研究として、解明していきたいところです。


カテゴリ: Environmental policy,Public policy — admin @ 5:41 PM

 

2014年5月19日

無人偵察機(ドローン)が話題にならない日本の怖さ

最近、フロリダでアメリカン航空の旅客機と無人航空機がニアミスしたというのでニュースになりました。軍事用の無人機ではなく、民間のものだったらしく、運用ルールが曖昧なためにこういう問題が起きてしまったようです。

そこで気になっていろいろ検索してみたら、日本でも軍事目的の無人機がもうすぐ導入されるそうです。まずは米軍が三沢基地に配備するということで、反対運動みたいなのも起きているようです(三沢基地ってエシュロンがあるって噂のところですわな・・・)。で、日本政府も2015年度には偵察機を導入したいみたいで、概算要求に向けた動きが既にあるみたいです。

これからは無人機の時代がやってくるのか!と思ったところですが、実はすでに、日本は無人機先進国らしいです。

日本産業用無人航空機協会: http://www.juav.org/index.html

農薬散布や空中写真撮影などの無人機はかなり開発されているのですね。ニアミスなどの事故にならないのは、そもそも高度がかなり低いのでしょうし、いろいろきちんと対策を打っているのでしょう。

しかしこれから無人機がさらに導入されるようになると、農薬散布のような感じで自主的なガバナンスに任せておくわけにもいかなくなるでしょうね。ドミノピザに至っては、無人機でピザを配達する実験を英国で実施したみたいです(どの程度本気なのかは判りませんが)。

パイロットの育成も重要な課題になるんですよね。米国では無人機パイロットの能力開発やメンタルの問題をどうするか、調査研究が始まっているようです(MITの航空学科でそういう研究しているというニュースを先日見ました)。

あと、大半の旅客機にはTCASといって衝突回避装置の設置が義務づけられていますが、TCASはお互いに電波を出し合うことで衝突を回避できるので、そんなものついてない無人機との衝突は回避できません(もしかしたら軍事用無人機にはついてるのかもしれませんが)。日本では(というか世界中で)無人機に関する法規制は曖昧で、現時点では航空法がほとんど対応できていないようです。

それにしてもメディアがあまり話題にしていないのが気になりますが、無人機はこれからかなり大きな産業になるような気もしますし、いろいろトラブルも増えそうで、ガバナンスの構築が喫緊の課題のようにも思えます。


2013年12月21日

政治をファンジン的文法で語る怖さ

アイドルやスポーツ選手が好きな人たちどうしで語り合うとき、言うまでもない前提として、対象であるアイドルなり選手・チームなりが至高の存在で、それに対する批判を差し挟む余地はないわけです。「○○ちゃんかわいい。だってかわいいから。」という循環論法が成立するわけです。こういうのをファンジン的文法、と一時期は呼んでいたものでした。

まぁそれはそれでいいのでしょうね。その人たちが好き勝手議論しているぶんには、外野の人たちに迷惑はかからないわけです。

経済活動でも同じようなことが言えます。みんなが自由に取引できればできるほど、満足度の最大化を実現できます。

しかし、外部不経済といって、経済活動の当事者間では便益が発生するものの、当事者たちの周囲にいる人たちが迷惑を蒙る可能性があります。いちばんわかりやすいのが工業化に伴う公害(大気汚染、水質汚染など)で、生産者と消費者の関係だけをみれば、最小の生産費用で最大のアウトプットを実現することが理想であるものの、その過程で出る排気や排水が工場の近隣住民に迷惑をかけるので、生産者と消費者という取引の「外側」も大事だよね、ということになります。だからこそ、政府が規制をかけるわけです。

さて、昨今の政治問題も、左~右、反原発~原発推進、みたいな形で二極化が進んでいるようです。こうなると、各極を支持する人たちの間で、ファンジン的文法が紛れ込んでくるような気がします。「○○議員の言っていることは正しい。だって○○議員が言っているんだから。」という議論が成立してしまうのです。

これは非常に危険なことだと思います。

アイドルやスポーツはエンターテイメントですから、個人で好きなエンターテイメントを消費する自由があります。嫌なら見なければいい、買わなければいいわけです。外部不経済もあまりないでしょう(CMで不愉快なものを見せつけられることがある、ってくらいでしょうか)。

しかし政治は外部性の塊のようなものです。たとえば日本の現在の為政者が嫌いであれば日本から出て行けばいい、のかもしれませんが、それがどれくらい現実的な行動選択でしょうか?あるアイドルが嫌いならファンクラブを脱退すればいい、ということとはずいぶんレベルが異なる話です。しかも政府の存在意義のひとつが外部不経済への対応であることからしても、政治や政党をアイドルやスポーツ選手と同じように扱うのはおかしな話です。

とはいえ、昨今の政治家・政党等に関する言説が、このファンジン的文法を帯びてきているように思えて仕方がありません。しかも、右も左も同じような傾向にあるような気がします。

政治とSNSの接近が理由でしょうか?まだ考えは煮詰まってないのですが、社会として少し考えていくべきテーマだろうな、と思います。


カテゴリ: Environmental policy,Media — Masa @ 11:05 AM