2010年4月23日
お年寄りに席を譲ることの合理的選択
今朝の、地下鉄通勤のこと。田舎からの通勤なので、まず確実に座れる。
途中の駅でおばあさんが乗ってきて、自分の前に立った。読書中だったのですぐに気づかなかったが、自分の目の前の手すりにつかまる手の動きが不安定なので、「あ、お年寄りかもしれないな」と思った。さて、ここで悩ましい意思決定の問題が発生した。すぐに席を譲るか、座って読書を続けるか、である。ちなみにかなり興味深い本だったので、このまま少し読み進めたい、という状況。
私の選択肢としては、(1)席を譲る、(2)気づかぬふりをして読書を続ける、の2つ。いうまでもなく(1)が正論ではあるが、実際、すぐに席を譲った人はいないし、結局は誰もが頭の中でこの2つの選択肢を比較考量するのである。原理主義者はモラルの問題だといって(2)を頭ごなしに否定するだろうが、いまの社会のルールでは(2)を選んだところで刑事罰を受ける可能性は限りなく低い。
このときはあまり深く考えなかったのだが、後々考えてみると、こんな考察ができる。
(2)の選択肢のほうが「読書」という便益を私にもたらす。だから(2)を選びたくなる。しかし、(2)を継続すると、少しずつ胃が痛くなってくる。なぜかといえば、お年寄りには席を譲るべきであるという世界観(worldview)をこれまでの人生で形成してきたからであろう。そして自分が譲らないことで認知的不協和が起き、ストレスとして身体的異常をもたらす。ということで、(2)は心理的ストレスと体調的不良というコストも発生する。譲るか譲らないかの判断は、(1)による総便益と、(2)による総便益(読書の便益-認知的不協和のコスト)の比較考量となる。
こう考えると、(1)が誘導すべき行動であるという仮定を置けば(こういうところは私は保守かもしれない・・・)、読書による便益を下げるか、認知的不協和のコストを上げることが、人々の行動を誘導するための手段となる。読書による便益を下げるのは別の害が発生しそうなので、認知的不協和のコストを上げることが現実的な解だろう。つまり、譲るということが正しい行動であるという世界観を各人が持つようになれば、自ずと誰もがお年寄りに席を譲るようになる。
では、譲るべきという世界観はどのようにして形成されるのか。これはいろいろな思想があるだろう。個人的にはハーバーマスの思想が好きではある(こういうところは私はリベラルかもしれない)。他者との相互作用が活性化すれば、社会に一定のモラルができあがるのかと思う。もちろんお年寄りを譲るべきという解を事前に租定すべきではないだろうが、本当の熟議(deliberation)が実現すれば、自ずとそのような解になるのではないかな・・・とは思う。まぁ、ここは議論の分かれるところ。
さて、結局私は席を譲ることにした。譲ってみてわかったのだが、譲ってみると、当初思っていたよりもずっと気持ちのよいものであった。これは当然至極で、人間は本能的に認知的不協和は抑圧しようという機制がはたらくのだから、認知的不協和によるコストは、譲るか譲らぬか逡巡している間は正確に理解できていない。少なめに見積もられるのである。だから、思ったよりも「スッキリ」した感じが得られたのである。
いま考えてみると、これは「体験学習」の過程だったのではないかと思う。逡巡している間は、自分の頭では心理的機制が足枷となって行動選択肢のコストを正確に把握できないわけであるが、いざ席を譲ることによって、ある程度正確に把握できたということだ。この過程なくして、認知的不協和が私に及ぼしていたコストは、私は正確に理解できないだろう。もちろん、こういう過程を繰り返すことで、われわれはそのコストを記憶するのであろう。
なんだかダラダラ書いてきたが、要は:
・社会を「いい」方向にもっていくためには、「不適正」な行動により認知的不協和をもたらすような世界観を人々が持つように促すことが必要
・各人を「適正」な行動へと促すには、体験による自律的学習の機会と時間を与えることが必要
ということではないかと思う。
しかし、現実には、そのお年寄りの顔を見上げたとき、最近亡くなった祖母の顔を思い出した、というのがとっさに席を譲った理由だったかもしれない。