2014年4月17日
研究倫理ではなく研究ガバナンスが必要
小保方さん事件以降、なにかと研究「倫理」が重要だということで、あちこちで議論が沸いていますし、実際、大学でも不正再発防止ということで、研究倫理の教育を義務付けようという動きが出てきています。
話はかわりますが、昨日、自分の交渉学と合意形成の講義で、win as much as possibleという演習をしました。学生を4人一組にして、囚人のジレンマ状況に置いて、協力・非協力を選択するカードゲームです。当然、囚人のジレンマ状況なので、若干のコミュニケーションの機会を与えたとしても、みんな非協力行動を選択するという均衡解に至ります。この演習の目的ですが、個人の道徳観や倫理観のみで協力行動に至ることは困難で、むしろ、非協力行動を罰する実効力のある仕組み(ガバナンス)が必要ということを体感してもらうことにあります。
で、思い付いたわけですが、研究不正という問題も、倫理教育だけではたぶん、解決しないのでしょう(必要条件かもしれませんが)。むしろ、研究不正をさせないようにする制度(ガバナンス)こそが必要ではないでしょうか。
昨今言われている「とかげのシッポ切り」のように、個人に責任を帰して問題解決したことにするのではなく、研究室などの連帯責任をどの程度の範囲まで設定するのかも、制度として事前に明示される必要があるでしょう。司法手続であれば、きちんと判例が残りますし、後の裁判で原則踏襲されるのでしょうが、大学等での処分は記録が散逸しますし、各大学がアドホックに決定できるので、個別事例の蓄積による制度化はあまり期待できません。
研究というのは、往々にして「性善説」が前提ですし、実際、establishされていない先端領域などは、数名の仲間が自主的に協力して盛り上がってくるものでしょう。しかし、学会が一種のエスタブリッシュメントとなり、誰が会長、委員長、多数派になるかによって、研究費の資源配分、賞や栄誉職などの名誉の配分が大きく影響を受けるようになってくると、これは一般的な政治過程、あるいは企業内の政治過程(「倍返しだ」みたいなやつですね)に似てくるのは仕方ないでしょう。大学内の総長選挙、学科内のガバナンスも似たようなものじゃないでしょうか。もちろん研究業績がなければ元も子もありませんが、業績の評価も政治性がゼロではないと言わざるを得ない状況に至ってるのではないでしょうか(それを認めると「科学」が崩壊することを恐れている人も多いのでしょうが、多少なりとも認めなければいつか、大崩壊に至るのではないでしょうか)。
いまこそ、何を業績として評価して、論文やその中身(仮説)をどのように検証して、学会誌はどのように査読して・・・といった研究のガバナンス、意思決定の諸要素を、研究に係る組織(学会、研究機関、学術誌等)はより一層、きちんと定式化して、世に示していくことが必要なのではないでしょうか。さもなければ、結局は経営判断がきわめて不透明な中小企業のような業態を「研究者」は続けていくのであって、そういう組織に対する社会からの投資は、自ずと縮小していかざるを得ないのだろうな、と思います。