2014年5月12日
近所の駅で、プラットホームの自動ドアについてる金具が、いたずらされにくいと思しきものに取り替えられていました。こういうののコストって、金具代だけならそうとう安いんだろうけど、作業員の賃金(社会保障負担含む)、取り付け作業に使う工具の減価償却、新しい金具を開発した研究者の賃金、この金具を売り込んだ営業担当の賃金・・・なんかを含めると、けっこうな金額になるのでしょうね。
ナイーブに考えると「なんでこんな金具1個あたり〇円もかかるのか?」と不満も生じるでしょう。たしかに、この金具が世界標準になって大量生産されるようになれば、初期投資(の応分負担)や取引コストが小さくなって、金具の原料費と製作費にきわめて近い値段で取引されるようになるのでしょう。しかし、誰かがfirst customerとならねばなりませんし、そのときの価格は当然、初期投資や人件費の応分負担の割合が大きくて、原価よりもかなり高くならざるを得ないでしょう。しかしそれが嫌だ、市場に普及して低コストになったら導入する、とみんなが言っていたら、いわゆる「囚人のジレンマ」に陥り、みんながフリーライダーになろうとして、結局はだれもfirst customerにならず、そういう新商品の開発は失敗してしまうわけです。
社会的にメリットが大きい新商品(イノベーション)であれば、そういう行き詰まり(いわゆる死の谷)を克服するために、補助金だの融資保証だのの形で、政府が介入して、first customersの負担を減らそうとするのでしょう。しかし、何が「社会的メリット」が大きいのかについて、誰が判断するか、そこが非常に曖昧なところがこの方法論の問題かもしれません。政府の介入の原資は税金なわけですから、ある意味、国民から薄く広く回収されています。そのときに、ある特定の人々に便益が及ぶイノベーションの導入のために介入が行われれば、その他の人々は損をするだけです。結局、どういうイノベーションを政府が後押しするかは、税金から得られるメリットの配分に帰結します。そう考えると、公共事業をどこでやるか、に近い話かもしれません。
逆に、政府が直接介入せず、特許という形で独占性を与えることで投資回収させるというモデルが最近の流行かもしれません。たしかにそのほうが政治介入の余地が少ないので、おかしなことになりにくいかもしれません。しかしこれはこれで、「社会全体の便益」よりも「投資回収の最大化」が行動規範になるので、技術開発が望ましいけれども、放置される領域がでてきてしまうかもしれません。
これらの問題を克服する第三の方法って何かないものですかね?
2014年4月17日
小保方さん事件以降、なにかと研究「倫理」が重要だということで、あちこちで議論が沸いていますし、実際、大学でも不正再発防止ということで、研究倫理の教育を義務付けようという動きが出てきています。
話はかわりますが、昨日、自分の交渉学と合意形成の講義で、win as much as possibleという演習をしました。学生を4人一組にして、囚人のジレンマ状況に置いて、協力・非協力を選択するカードゲームです。当然、囚人のジレンマ状況なので、若干のコミュニケーションの機会を与えたとしても、みんな非協力行動を選択するという均衡解に至ります。この演習の目的ですが、個人の道徳観や倫理観のみで協力行動に至ることは困難で、むしろ、非協力行動を罰する実効力のある仕組み(ガバナンス)が必要ということを体感してもらうことにあります。
で、思い付いたわけですが、研究不正という問題も、倫理教育だけではたぶん、解決しないのでしょう(必要条件かもしれませんが)。むしろ、研究不正をさせないようにする制度(ガバナンス)こそが必要ではないでしょうか。
昨今言われている「とかげのシッポ切り」のように、個人に責任を帰して問題解決したことにするのではなく、研究室などの連帯責任をどの程度の範囲まで設定するのかも、制度として事前に明示される必要があるでしょう。司法手続であれば、きちんと判例が残りますし、後の裁判で原則踏襲されるのでしょうが、大学等での処分は記録が散逸しますし、各大学がアドホックに決定できるので、個別事例の蓄積による制度化はあまり期待できません。
研究というのは、往々にして「性善説」が前提ですし、実際、establishされていない先端領域などは、数名の仲間が自主的に協力して盛り上がってくるものでしょう。しかし、学会が一種のエスタブリッシュメントとなり、誰が会長、委員長、多数派になるかによって、研究費の資源配分、賞や栄誉職などの名誉の配分が大きく影響を受けるようになってくると、これは一般的な政治過程、あるいは企業内の政治過程(「倍返しだ」みたいなやつですね)に似てくるのは仕方ないでしょう。大学内の総長選挙、学科内のガバナンスも似たようなものじゃないでしょうか。もちろん研究業績がなければ元も子もありませんが、業績の評価も政治性がゼロではないと言わざるを得ない状況に至ってるのではないでしょうか(それを認めると「科学」が崩壊することを恐れている人も多いのでしょうが、多少なりとも認めなければいつか、大崩壊に至るのではないでしょうか)。
いまこそ、何を業績として評価して、論文やその中身(仮説)をどのように検証して、学会誌はどのように査読して・・・といった研究のガバナンス、意思決定の諸要素を、研究に係る組織(学会、研究機関、学術誌等)はより一層、きちんと定式化して、世に示していくことが必要なのではないでしょうか。さもなければ、結局は経営判断がきわめて不透明な中小企業のような業態を「研究者」は続けていくのであって、そういう組織に対する社会からの投資は、自ずと縮小していかざるを得ないのだろうな、と思います。
2014年4月2日
とあるエッセイに、お雇い外国人チェンバレンが、日本人を「ひじょうに模倣好きの国民」と記していたということが書いてあったので、探してみた。
なかなか見つからなかったが、archive.orgにあった平文テキスト版のIntroductory Chapterに
…the ingrained tendency of the national mind towards the imitation of foreign models does but repeat to-day, and on an equally large scale, its exploit of twelve centuries ago. At that early period it flung itself on Chinese civilisation as it has now flung itself on ours…
とあり、ここのことを指しているものと思われる。しかしgoogleによってスキャンされたバージョンには見当たらない。うーん、困ったな・・・。
いずれにせよ備忘。