2016年10月17日
昨日新潟県知事選が投開票されましたが、米山隆一氏が当選されたそうです。柏崎原発の再稼動はあきらかに今回の選挙戦の争点のひとつだったと思われますが、有権者はどのような投票行動をしたのかな・・・と興味深く、県選管発表のデータをすこし分析してみました。
選挙結果ですが、相変わらずのPDFによる公表です。これでは分析しずらいのですが・・・。CSVくらい出して欲しいのですが。とはいえコピペ可能な状態のPDFだったので、まぁまぁ簡単に、エクセルのファイルを制作できました。
さて、データを見て行きましょう。まずは米山候補vs森候補で、2人の合計得票数に占める米山候補の得票の割合を見て行きましょう。トップ10は・・・
1位 加茂市 67.96%
2位 新潟市西蒲区 61.40%
3位 田上町 61.35%
4位 魚沼市 58.88%
5位 新潟市秋葉区 58.65%
6位 新潟市東区 57.99%
7位 燕市 57.93%
8位 新潟市南区 57.31%
9位 小千谷市 57.28%
10位 新潟市西区 57.23%
なぜ加茂が圧倒的に多いのか僕にはわからないのですが、加茂の県立病院建て替え論争で泉田支持派がまとまって米山氏に投票したのでしょうか。あと、地域的に、新潟市の中心部からみて南西側の自治体が多いですね。なぜでしょう?僕には理由はわかりませんが、何かありそうです。あと、魚沼、小千谷が多いのは、言うまでもなく、米山氏の出身地域だからでしょうね。
では、森氏が市長をつとめていた長岡市の結果をみてみると
森氏 72,224 vs. 米山氏 62,081 → 米山率 46.22%=森率 53.78%
となります。上に挙げたトップ10に比べればあきらかに森氏優勢ですが、魚沼市での米山氏優勢ほどの勢いはないですね。
あと、興味深いのが、自治体単位でみると、米山氏が最大の得票数を獲得したのが長岡市なんです。この単位でみると(新潟市を区単位に分割すれば)、長岡市が人口最大ですから、当然といえば当然なのですが。とはいえ長岡市で米山氏が苦戦していたら、もしかすると、違う結果になっていたのかもしれないなぁ、という気がします。
最後に、立地地域の結果を見てみましょう。
柏崎市 森 23,078 米山 19,481 (米山率45.77%、29位)
刈羽村 森 1,668 米山 1,040 (米山率38.40%、36位(ワースト2位))
まぁ当然と言えば当然なのでしょうが、柏崎では米山氏は善戦してると言えるのかもしれません。刈羽村はまぁ、当然かもしれませんね。ここらへんは他の選挙の結果と比較して評価しないとわかりませんね(ちなみに前回の選挙は泉田氏の対抗馬が共産党とマック赤坂(!)だけなので比較データにならない(笑))。
結果をGISにおとせば、もっとおもしろい分析ができるかもしれませんね。
とりあえずデータをアップロードしておきますので、いろいろ遊んでみてください。
niigata-2016-pref_gov-election
2016年6月23日
都知事選がまたあるわけですが、「オリンピック中止」を公約に掲げる有名人候補が当選したらどうなるんでしょうね。意地悪ばあさんこと青島幸雄も都市博中止ってことで当選して実際に中止させた実績があるわけで、歴史は繰り返すかも。まぁ万が一そんな有名人が出馬したとしても、広告代理店業界が必死こいて潰しにかかるでしょうし、さすがにオリンピック中止はヤバいだろうと有権者も思うでしょうしね。
そんな妄想はよいとして、オリンピックといえば「マスコット」が創作されるわけですよ。というかあれってただの「ゆるキャラ」((c)みうらじゅん)でしょ。確かにロサンゼルス五輪のときの鷲は可愛かったけど、その後はなんか迷走してて、ロンドンのときに総スカン食らったバケモノみたいにキモカワ路線へと走っているような気もします。
で、こんどの東京はどうなるんでしょうね?開催2~3年くらい前に公表されるようですので、来年に発表されるのでしょう。
しかし、どんなデザインにしても「キモい」、「意味不明」、「■■■に似てる」って文句がでてきそうな予感がします。
いっそのこと、東京開催なわけですし、こち亀の「日暮熟睡男」にするのが理想ではないかと。

2016年6月17日
twitterで見かけて、何気なくおもしろそうだったので読んでみました、この本。
とてもよい意味で期待を裏切るものでした。
まずはどうでもいいことですが表紙。ネットで見ると黄色に見えますが、これ、金色です。とてもゴージャスw。

そんなことはどうでもよくて、中身なのですが、認知資本主義、マルチチュード論(←これはまだ小職完全に理解しきれず)などを参照しながら、「労働」の変容を説いています。僕はまだ古い思想体系に凝り固まっているのかもしれませんが、労働の対価として賃金が支払われるのであって、個人が生存のために手段として労働を提供することを前提にいろいろなモノゴトを考えておりました。しかし、認知資本主義においては、労働と余暇の間に境界線を描くこと困難で、生きることこれ即ち労働(生産)という非物質的労働が基本となってしまうようなのです。
実際、ボクにとって最近とても「不思議」な現象って、これで説明できることが多いような気がするのです。地方やイナカの「まちづくり」のような活動をする人々、より広い意味で「最先端」に見えるような活動をしている人々を遠くから眺めていると、どこまでが彼らの労働で、どこまでがプライベートなのか、その境界線が全く見えないのが、ボクにとって不気味で仕方ないのです。どこで生活費を稼いで家計を維持してるのか、謎なんですよね。もちろん何か手段があるのでしょうが。しかも、優秀と目される人々が、何かを生産しているようには見受けられないのです。失礼ですが、なんか、チャラチャラしてるな、という印象が強いわけです。
でも、確かに認知資本主義の時代においては、需要と供給がマッチしてそこに労働が発生し、生産性向上のための都市集積やイノベーションが発生するという従来のモデルを踏襲している以上、何もブレークスルーは起きない。むしろ、そもそも何が需要か、という人々の認知システムを創造してしまうことのほうに大きな意味があるのでしょう。だからこそ、現在、先駆者のように見える人たちは、従来の「生産」や「労働」という概念の枠では説明できない、新しい価値システムの創造に勤しんでいるのかもしれません。
僕は80~90年代の歌謡曲をいまだに愛好する保守的な人間なので、こういう、社会システムの大きな変革を目の当たりにすると、困惑するし、気持ち悪いなぁ、軽薄だなぁ・・・という気持ちを抱いて、自分の心を落ち着けようとするのかもしれませんが、もしかすると、従来の「労働」概念を捨てないことには通約不可能な、経済社会システムの大きな変革が、この20年程度で進行していくのかなぁ・・・なんて思えてきました。
とりあえず、復習がてら、この本のなかで何度も参照されている以下の本をいま読みはじめたところです。新しい都市(まちづくり)の姿を模索する必要性をひしひしと感じています。