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2015年11月25日

地方創生の合理性と東京の衰退

このところ地方創生の美しい話題ばかりで、そのイケイケでリア充な感じに妬みの感情ばかり抱いておりました。でも、実はそうでもないのかなー、と思い始めてイライラが収まりつつある今日この頃でございます。

青少年期をバブル経済真っ只中で成長したあたくしにとって、「未来ある若者がなんでド田舎に移住すんだよ?」と、不思議でならないわけです。過疎地だよ。NHKで毎朝やってた「明るい農村」みたいなとこだよ。未来なんてないじゃん。

どっかの意味不明な農本主義カルト集団みたいな思想と大して変わらない流行に洗脳されてる若い連中なんじゃないか・・・と訝しく思わざるを得ないわけです。

しかし、Uターンのムーブメントがここまで大きくなってくると、テキトーにスルーするわけにもいかず、真剣に実態を眺める必要性をひしひしと感じております。

じゃぁなんでみんなイナカに帰るのか。すこし冷静に考えてみました。

第一に、東京における事業経費、生活費が相対的に高くなりすぎた、というのは事実としてあるのではないかと思います。アジア資本の流入で都心の地価は高騰しているようですし、電車移動も便利とはいえ混雑と長時間通勤は決して安くないコストです。それに比べて、イナカは中心市街地の衰退やら空き家問題やらでオフィスや住宅の家賃は低下傾向にありそうですし、移動もマイカーで余裕ですし、職場から徒歩圏の中心市街地に住んでも大した家賃ではないのでしょう(※これについてはエビデンスが必要ですが)。起業するなら、東京よりも地方都市やイナカのほうが便利かもしれません。いまならネット環境もあるしね。

第二に、都市の魅力が低下しているのかもしれません。イナカっていうのは、みんながみんな知り合いで、常に監視されているような抑圧感が蔓延しているもんだ、というのが私の思い込みです。イナカこそパノプティコン、監視社会の最たるものでしょう。そんな抑圧から解放されたくて、夜汽車でトーキョーへ旅立つ・・・という70年代フォークソングの歌詞みたいな人口の社会増減が発生していたのでしょう。逆に、トーキョーに来れば、誰も知り合いはいないわけです。せいぜい大学のクラスメイト、職場の上司や後輩、そういう希薄でドライな限られた人間関係こそが、ウェットでしがらみだらけのイナカの規範から解放してくれる都市としての魅力だったのでしょう。「あの人、いつも飲み屋で話すんだけど、昼間はなにやってんだか知らない」みたいな世界。

しかーし!いまや時代はSNS。朝から晩まで、スマホを指でスリスリしては、ほんとうの友達でもない知り合いどもが、毎日のようにリア充自慢大会を繰り広げるのをため息ついて眺めるばかり。しかし余計なつぶやきをしようものなら義憤に駆られた匿名の人々に言葉の袋叩きに遭う。イナカの面倒な人づきあい以上に面倒な人づきあいがSNS上で展開されているわけです。そのくせ「○○○なう」とかつぶやいて、監視社会に自ら身投げしてしまう私たち。じゃぁ東京なんて来る必要ないじゃん。世界中どこにいてもSNSのコミュニティに所属する限り抑圧されるんだから。東京に来ても自由になれなくなっちゃったんでしょうね。

もっとポジティブにとらえれば、東京に来なくても、いろんな人たちとSNSでつながることができるわけです。以前は東京に来ないと面白い人たち、尖った人たちに遭えなかったわけですが、いまやネットで世界中どこからでもつながれるわけです。それならイナカでもいいや、ってことになりますわね。

しかも東京でないと食べられないもの、買えないもの、見れないもの・・・ほぼすべて消失しちゃったんじゃないでしょうか。ネットで何でも買える時代ですし、東京に住んでたって結局はネットでモノを買うわけです。テレビだって昔のイナカなら、ブースターのスイッチ入れて、UHFの微妙なダイヤルを合わせて、ノイズを我慢しながら数少ないチャンネルから番組を見る・・・しかも東京から数日遅れで「ヘンな時間」に放送されてる・・・って時代じゃなくなってる。若い人ならそもそもテレビじゃなくて、ようつべやらその他WWWでコンテンツを見る時代なわけです。これもイナカで十分。

こうして考えると東京の魅力って何なんでしょうね?いまだに大学進学時に上京する人たちはかなりの数に上ると思いますが、今後、ネット経由で大学講義ができるようになれば、進学時の上京さえ激減してしまうかもしれませんね。

いやー、そんなことはないだろう・・・と自分の中でツッコミつつ、社会の構造を考えれば考えるほど、上京することの意味が消失してきているようにも思えてなりません。


カテゴリ: Public policy,Urban planning — Masa @ 6:49 PM

 

2015年11月19日

メタ・デモクラシーの視点/フランスのブルカ論争で思い出した

フランスのテロ事件について考えさせられることが多い今日この頃であります。

フランスにおけるイスラムといえば、個人的にはブルカ(イスラムの女性が着用する頭巾)着用禁止の論争が妙に記憶に残っています。もう5年くらい前の出来事でしょうか、公的な場面でブルカの着用禁止を明確に打ち出したフランスという国は不思議だなぁ、反イスラム的感情が強い国なのかなぁ・・・と漠然と思っていました。そんなことを授業で話していたら、フランスから日本留学で来ていた学生に、いやいやそうじゃなくて、フランスではライシテという概念が強くて、行政と宗教を何が何でも分離しようとするから、そのような施策が正当化されるのだ、と教えられました。なるほど。イスラムに対する差別ではなくて、あらゆる宗教的なものの排除なわけですね。ですから、たぶん、十字架とか仏像とかも同様に、公的な場面で陳列することは禁止されるのでしょうね。ある意味、フェアな扱いなのかもしれません。

この原則は意地でも貫き通す、というのがフランスの信念だったのかもしれません。しかしそんなガバナンスって、democraticなんでしょうかね?

宗教が統治に介入することがundemocraticだからライシテを固持することがフランスにおけるdemocracyの必要条件だ、という主張も判らなくはないです。まぁ同様に、選挙で代議士を選出できることだとか、発言等の自由が担保されるだとか、いろいろな必要条件をdemocracyに課すことはできるでしょう。

しかし、それらの必要条件をdemocraticに定める必要性はないのでしょうか?

これを言い出すと無限の相対化と循環論法に陥る危険がありますし、それこそ恐怖政治でさえdemocracyだという帰結につながりかねません。とはいえ、democracyの定義を教条主義で神聖化することは、その定義を行う人々による一種の独裁を許容することになります。

結局、ゼロかイチかの議論をしても埒は開かず、democracyの定義に適度な再帰性を持たせる(実際、人間が創出した概念で再帰性がゼロのものなど、この世に存在しませんが)ことが必要なのでしょうが、その再帰性のレベルをどの程度にするのか、そして具体的にどういう仕組み(熟議、闘技・・・)でそれを実現するのかという、メタレベルのdemocracyについて実用的な議論が必要になってくるのだろうな、と思うわけです。

うーん、頭がパンクしそうなので、ここらへんで止めておきます。


カテゴリ: Public policy — Masa @ 12:12 PM

 

2015年11月4日

「『いいね』経済」バブルの問題

最近何かとクサれ気味の松浦です。なんか悪態つきたくなるのが中年オヤジの悪いところなのでしょうが、老化に伴うホルモンバランスの崩れってやつですかね。人間だもの、みつを。

最近どうもイラっとくるのが、いわゆる「ロハス」みたいな感じで、田舎の寒村とかで「質素」な暮らしをしながら小さな商いして村おこしになってるみたいな若夫婦のストーリー。みんな、なんでかしんないけど、揃いに揃って、無印良品あたりで売ってそうなボーダーのボートネックの長T着てるんだ。別に個別具体的案件があるわけじゃないんだけど、フェイスブックだの新興メディアだの見てると、そういうサクセスストーリーで溢れてるわけです。

ああいうのって、売ってる商品とか商売の本質ってそんなに価値がないものなんじゃないかな。結局、若干値段が高くても商売ができるのは、パッケージ、ネット上での「いいね」、有名人のendorsement、背後のストーリー・文脈で付加価値(非利用価値)をつけてるからなんじゃないかな、と思うわけです。結局、イメージ商売って意味では、AKB商法と大して違いはないんじゃないでしょうか。商品自体がもたらす価値よりも、おまけの価値の方が肥大化しちゃってる案件も、けっこうあるんじゃないかと思われるわけです。あ、ビックリマンチョコ大量廃棄なんて昔ありましたね。いまの小学生たちはビックリマンチョコなんて知らないでしょうが。

まぁロハス的なものであれば、商品自体の品質が高くて機能や耐久性が高いこともあるので、一概に否定するのもなんでしょうかね。ただ、再生産につながらない付加価値を消費することでおカネが循環する経済って、バブルになりかねないんじゃないっすかね、って言いたいわけです。みんながヴィトンのバッグを持ち歩くような経済ですな。

結局、そういう、「いいね」で価値を増すやり方っていうのはリスクが大きいんじゃないですかねー。厭きられたら一気に価値がなくなるわけだし。

一時期の「佐野研二郎デザイン」信仰なんかに通じるところもあります。田舎の山村は切羽詰まってて、なんでもいいからカネになるものは商売にしたい気持ちもわかるのですが、ブランドで価値を上増しするんじゃなくて、地域のオリジナリティがあるほんとうの価値は何かを見つめなおさないと、地方創生なんて、「いいね」バブルで終わるんじゃないっすかね。


カテゴリ: Environmental policy,Public policy,Urban planning — admin @ 9:03 AM