2011年3月23日
今日はわが師匠、マサチューセッツ工科大のLawrence Susskind先生に、災害復興に関してアドバイスを乞いました。
曰く、collaborative and adaptive cityをつくっていく必要がある、とのこと。町を設計するのではなくて、刻々と変化していく環境に地域の人々が適応しながら修正できる都市をつくっていくべきだろう、とのことです。
そのためには、地域の人々に、周囲の環境にあわせて自分たちの町をつくりあげていくスキルを身につけてもらうこと、そのための最初の一歩のプロセス面での支援を与えることが、いま、プランナーに求められることだろう、とのことでした。
結局、外からやってきた人間が理想都市をつくったり懐古風の街並みを再現するのではなく、そこに住み続ける人々自身が、都市の順応的管理を納得できる形で行っていくキャパシティと仕組みをつくること、がわれわれの仕事なのかもしれません。住民のみなさんが話し合って納得できる形で柔軟な都市を形成できるような制度設計がいまわれわれに求められているのでしょう。
地震災害だけでなく、今後、地球規模での気候変動や、大規模な経済構造の変革が頻繁に起きることを想定すると、住宅など最低限のインフラ整備以上の都市整備は、一気に復興するのではなく、自然だけでなく社会経済の環境変化に柔軟な対応できるような余裕を残しておいて、さらに住民自身が今後自分たちで変えられるような仕組みをつくっておく必要があるのでしょう。
2011年3月22日
ハリケーン・カトリナからの復興に際してコーネル大学の都市地域計画学科の一員として現地に入ったJohn Forester先生に、これからの震災復興における都市計画系研究者や学生の関わり方についてアドバイスをいただきました。
以下、私自身の解釈に基づく要点です。ご本人の言葉をそのまま訳したわけではないので文責は私にあります。
- まずは現地の人の声に耳を傾ける
- 自分の思想、技術、解決策を押しつけてはならない
- 米国では過去に、一部のコミュニティが研究者の好き勝手にされて迷惑を蒙った歴史(研究公害)もあり、研究者の関与に対して警戒感が高い
- 現地のパートナー組織が必要
- 現地からの要請で関わるのであれば自ずとそのような組織が存在するはず
- 現地に関わる段階で地元の団体が重要になる
- 学生が関わる前に十分な注意(研修)が必要
- 「技術を供与してあげる」ような思想、姿勢、態度は受け入れられない
- 相手に知識が欠けていると言っているようなもので相手を蔑むことになる
- 自分の能力を過信させない必要がある
確かに自分のまちづくり思想を押し付ける都市計画のひとたち、多いですものね。われわれの先入観を取っ払って、現地の人たちが何を望んでいるのか、きちんと聴いてまわるところから始めるべきなのでしょうね。
2010年4月23日
今朝の、地下鉄通勤のこと。田舎からの通勤なので、まず確実に座れる。
途中の駅でおばあさんが乗ってきて、自分の前に立った。読書中だったのですぐに気づかなかったが、自分の目の前の手すりにつかまる手の動きが不安定なので、「あ、お年寄りかもしれないな」と思った。さて、ここで悩ましい意思決定の問題が発生した。すぐに席を譲るか、座って読書を続けるか、である。ちなみにかなり興味深い本だったので、このまま少し読み進めたい、という状況。
私の選択肢としては、(1)席を譲る、(2)気づかぬふりをして読書を続ける、の2つ。いうまでもなく(1)が正論ではあるが、実際、すぐに席を譲った人はいないし、結局は誰もが頭の中でこの2つの選択肢を比較考量するのである。原理主義者はモラルの問題だといって(2)を頭ごなしに否定するだろうが、いまの社会のルールでは(2)を選んだところで刑事罰を受ける可能性は限りなく低い。
このときはあまり深く考えなかったのだが、後々考えてみると、こんな考察ができる。
(2)の選択肢のほうが「読書」という便益を私にもたらす。だから(2)を選びたくなる。しかし、(2)を継続すると、少しずつ胃が痛くなってくる。なぜかといえば、お年寄りには席を譲るべきであるという世界観(worldview)をこれまでの人生で形成してきたからであろう。そして自分が譲らないことで認知的不協和が起き、ストレスとして身体的異常をもたらす。ということで、(2)は心理的ストレスと体調的不良というコストも発生する。譲るか譲らないかの判断は、(1)による総便益と、(2)による総便益(読書の便益-認知的不協和のコスト)の比較考量となる。
こう考えると、(1)が誘導すべき行動であるという仮定を置けば(こういうところは私は保守かもしれない・・・)、読書による便益を下げるか、認知的不協和のコストを上げることが、人々の行動を誘導するための手段となる。読書による便益を下げるのは別の害が発生しそうなので、認知的不協和のコストを上げることが現実的な解だろう。つまり、譲るということが正しい行動であるという世界観を各人が持つようになれば、自ずと誰もがお年寄りに席を譲るようになる。
では、譲るべきという世界観はどのようにして形成されるのか。これはいろいろな思想があるだろう。個人的にはハーバーマスの思想が好きではある(こういうところは私はリベラルかもしれない)。他者との相互作用が活性化すれば、社会に一定のモラルができあがるのかと思う。もちろんお年寄りを譲るべきという解を事前に租定すべきではないだろうが、本当の熟議(deliberation)が実現すれば、自ずとそのような解になるのではないかな・・・とは思う。まぁ、ここは議論の分かれるところ。
さて、結局私は席を譲ることにした。譲ってみてわかったのだが、譲ってみると、当初思っていたよりもずっと気持ちのよいものであった。これは当然至極で、人間は本能的に認知的不協和は抑圧しようという機制がはたらくのだから、認知的不協和によるコストは、譲るか譲らぬか逡巡している間は正確に理解できていない。少なめに見積もられるのである。だから、思ったよりも「スッキリ」した感じが得られたのである。
いま考えてみると、これは「体験学習」の過程だったのではないかと思う。逡巡している間は、自分の頭では心理的機制が足枷となって行動選択肢のコストを正確に把握できないわけであるが、いざ席を譲ることによって、ある程度正確に把握できたということだ。この過程なくして、認知的不協和が私に及ぼしていたコストは、私は正確に理解できないだろう。もちろん、こういう過程を繰り返すことで、われわれはそのコストを記憶するのであろう。
なんだかダラダラ書いてきたが、要は:
・社会を「いい」方向にもっていくためには、「不適正」な行動により認知的不協和をもたらすような世界観を人々が持つように促すことが必要
・各人を「適正」な行動へと促すには、体験による自律的学習の機会と時間を与えることが必要
ということではないかと思う。
しかし、現実には、そのお年寄りの顔を見上げたとき、最近亡くなった祖母の顔を思い出した、というのがとっさに席を譲った理由だったかもしれない。