2014年10月10日
いまある雑誌を読んでいたら、喫煙に関する紛争解決の方法論として、分断による処理が示されていました。要は分煙のことで、喫煙者と非喫煙者を完全に分離してしまえば、経済学でいう外部不経済がなくなるので、紛争が解決されるということです。
これは現実社会の諸相に見られる解決策で、たとえば、都市のコミュニティが多様な特徴を持つこと、いわば「棲み分け」もその一例でしょう。そうか、棲み分けは人間だけじゃなくていろんな生物が体得している生存戦略ですので、紛争の当事者がお互い顔を合わせなくするというのは、とてもrobustな戦略なのでしょう。
しかしこれにも限度があることは言うまでもありません。気の合う人だけでコミュニティをつくろうとしたら、極小規模のコミュニティをとんでもない数、独立して存在させなければなりません。しかしそれぞれのコミュニティの生存のために必要最低限の規模があるでしょうから、極小規模のコミュニティは自滅してしまいます(新興宗教集団が尖鋭化するとともに構成員が減ってなって自滅するようなもの)。
さて、日本の現状を省みるに、極小規模のコミュニティが急増しているのかもしれません。ツイッターもそうですが、ネット社会というやつでは、気の合わない連中を容易に「ブロック」できます。ブロックされた人も、(中学校のいじめ問題とは違って)、ネットでは自分を受け入れてくれるコミュニティを容易に見つけられます。
こうしてコミュニティはどんどん、小さくなってきているのでしょう。
もちろん、それは紛争解決のために、とてもrobustな手段を用いていると評価できます。
しかし、現実社会では、大半の人が、日本政府の統治下で生活しています。地域のなかでも、いろいろな人たちが、いろいろな仕事を通じて、互恵関係に基づく経済生産に関与しています。家族の中だって、ネットで分断されていても、同じ屋根の下で生活しているわけです。
ここでどうしても歪みが生じてしまうのでしょう。つまり、ネットは分断による紛争解決を可能としたわけですが、実際の現実社会では隣人が物理的に存在するわけで、外部不経済をどうしてもお互いにもたらしてしまうのです。
いわゆるネトウヨ問題、現代的な相隣紛争(保育所のNIMBY化など)、青年による親の殺害事件などの多くが、この「ズレ」に起因しているようにも思えてきます。
ネットは、心の同志による「ユートピア」の可能性を切り拓いてくれはしましたが、現実社会に「ユートピア」をもたらしてくれるわけでは、まだまだなさそうです。
2014年5月30日
Jonathan Haidtの”The Righteous Mind: Why Good People are Divided by Politics and Religion”を最近読んでからというもの、けっこう影響を受けているわけです。
で、この本の中で、道徳心理学(moral psychology)の実験が例示されています。人間が倫理にまつわる難しい問いかけをされたときに、いくら反証を出されても、自分の結論をなかなか変えようとしないし、反証されて追い込まれれば追い込まれるほど「それってとにかく違和感あるから許せない」みたいな回答しかできなくなるそうです。
この事例をもとに、人間がモラルに関する判断をするときには、自分の理性に問いかけて判断をだしているのではなく、むしろ瞬間的に脳内で判断が行われた後でそれを正当化するための理由を考えているのかもしれないということが指摘されているようです(私の誤読でなければよいのですが・・・)。
もしこの仮説が正しければ、現実問題として、モラルに関する論争が存在するとき、この論争で相対する当事者たちが、お互いにそれぞれの主張を理論づけて対話したとしても、何らかの和解や相互理解につながるはずはないということになります。論理をもって相手を説得しようとしても、そしてたとえ相手の論理を完全に棄却することができたとしても、お相手は、自分の判断を正当化するために別の論拠を探しに行くだけです。脳内で「判断」が先にできあがってしまっているのですから、後づけの「論理」をいくら否定しても、「判断」は変わらないわけです。
そうなると、いわゆる熟議(deliberation)なるもの、つまりモラルに関する論争を、相互の理性に訴えかける対話を通じて何らかの合意にいたらしめる可能性を否定しているようにも思えます(もちろん二項対立型の論争が存在しない状況、つまり「判断」ができあがっていない状況については、熟議は可能なのかもしれません)。
結果として、異なるモラルの下で結集する人々の間で永遠にたたかいを続けるしかないという、なんというか、ファシズムの政治思想につながりそうな気もします。実際、Wikipediaで見てみたら、Haidt氏はそういう理由で批判されているようです。
しかしよく読んでみると、この本は、そういうシニカルな結論で終わらせていないと思います。彼が言いたいのは、「論理」で相手を説得しようとしても無駄なんだから、相手の「判断」に対して直接訴えかけないといけないんだよ、ということなんじゃないかと思います。
実際、それぞれの人の脳内にある「判断」は、絶対に変わらないものじゃなくて、状況によって変わるものだそうです。これは以前読んだ藤井先生の本でも指摘されていることかと思います。
じゃぁ、どういう状況になれば、人間が「判断」を下す回路が柔軟になって、再構築を促すことができるのでしょうか?
いま自分が関心があるのがこの問題で、この「判断の回路をやわらかくする介入」を実用的な工程として定式化できれば、いろんな対話の場面で有用じゃないでしょうか。
それこそ、このステップを踏めないと、モラル論争に対応できる熟議など不可能じゃないかとも思えてきています。もしかすると、地域紛争でさえも、解決の糸口が見えてくるかもしれません。
では、どういう「工程」があり得るでしょうか?ひとつの着想としては、Kurt LewinやEd Scheinの組織変革(organizational change)の3ステップが援用できるかなと考えています。彼らは、組織を変えるためには、unfreeze -> change -> (re)freezeという3ステップが必要だと言っています。いちばんの鍵はunfreezeのステップで、まず、組織内部の人たちが自分の組織の現状には問題があることを認める(彼らに認めさせる)ことから、組織変革が始まるそうです。この「自分たちが間違っている(かもしれない)ことを認める」という大きな壁を越えることは、まさに、自分の「判断の回路をやわらかくする」ことに近いのではないかと思います。他にもいろいろな手段はあると思いますので、いろいろな先行事例を学ばせていただいて、援用していきたいなぁと漠然と考えています。
いずれにせよ、この「判断」という謎の領域こそが、これからの合意形成を考える上でのフロンティアなのではないかと思います。
2014年5月29日
「ステークホルダーによる熟議」というフレーズを以前見かけて、そりゃないだろ!と反応した記憶が残っています。誰が言ってたのかいまいち定かではないのですが、いずれにせよおかしいと思うわけです。なぜかは以下の通り。
ステークホルダーの定義はいろいろあるでしょうがは、「何らかの案件について(受け身であったとしても)利害関係がある人たち」を指すことについては大きな異論はないでしょう。つまり、何らの案件との関係性によって、ある程度絞られた人たちのことを意味します。
一方、熟議民主主義(deliberative democracy)というものは、交渉(bargaining)では対応できない「モラル論争(moral conflict)」に対応できる(しようとする)対話・政策形成の枠組みとして出てきたわけです。少なくともGutmann and Thompsonの問題提起はそこにあったかと。ここでいうモラルとは、公衆によってすべからく順守されるべき規範であります。たとえば「銃は所持してはいけない」とか「受精卵には人命が宿るので妊娠中絶や幹細胞研究はしてはいけない」といったような規範です。ですからモラルは、国民なり市民なり住民なり、一定の領域の公衆全員に関わる問題です。もしかするとその領域を区切ることなく、世界じゅうの「人間」に関わる問題といえるかもしれません。
さて、「ステークホルダーを集めた熟議によってモラルを論じる」ことは可能でしょうか?
第一に、モラルに関するステークホルダーを特定できるかという疑問があります。モラルは公衆全体を一律に縛る規範なわけですから、利害関係の大小もなく、結果としてステークホルダーは公衆全体となるはずです。よって、対話のテーブルに実際につくステークホルダー代表者を特定することは困難ではないかという疑問があります。では国民から無作為抽出で代表者を選びましょう、という人も出てくるかもしれませんが、それでは最早、ステークホルダー代表と呼ぶことはできないでしょう。公衆全体がステークホルダーだ、と言い切ってしまったら、敢えてステークホルダーという概念を導入する必要性が消滅してしまいます。むしろ、無作為抽出等の手段で集められた人たちのことは「ミニパブリクス」と呼ぶべきでしょう。
「それは屁理屈で、実際の社会問題なら賛成派と反対派がいるだろうから、彼らをステークホルダー代表と措けばいいじゃないか」という人もいるでしょう。たとえば、銃規制なら、被害者団体とNRAみたいなのがステークホルダーじゃないかという人も出てくるかと。これが第二の論点で、モラルについての熟議をステークホルダーが実施できるか、という疑問です。
確かに、銃規制の問題についてこれらのステークホルダーが対話することは可能でしょう。しかし、それは「熟議」でしょうか?彼らが規制すべきか、しないべきかについて対話して、何か結論がでることなどあり得るでしょうか?もしかすると「交渉」は可能かもしれません。実際に、妊娠中絶の容認派と反対派の対話が米国で実施されたことがあるのですが、結論は、ティーンエージャーの望まぬ妊娠を減らすという目標に向けた活動協力でした。つまり、妊娠中絶に係るモラルについての「熟議」は成立せず、各派閥の共通の利害関心に基づく活動に向けた合意ができた、つまり「交渉」ができたわけです。もしかすると、「諸々の準備ができてないティーンエージャーは妊娠すべきでない」というモラルが析出されたと言えるのかもしれませんが、妊娠中絶に賛成・反対の人たちだけで、中絶に直接言及しないモラルについて議論してよいのか(ティーンエージャーの妊娠に係るステークホルダーを集めたわけでないのだから、ステークホルダーがモラルについて合意に至ったことにならない)という問題が残ります。やはり、何らかの政治課題についてステークホルダーを特定することはできるかもしれないけれども、その対話は「交渉」となってしまうのです。
ただし、ステークホルダーによる交渉のなかで、熟議的な側面があることは否定しません。モラルについて語られることはあるでしょう。しかし、交渉>熟議という比重は変わらないでしょう。
ということで、「ステークホルダーによる熟議」は不可能だと私は考えます。
とはいえ、『流行の「ステークホルダー」と「熟議」をとりあえずくっつけちゃおう』みたいな雰囲気に対する苛々の感情が、個人的には大きいんですけどね。