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2014年2月7日

脳科学からみた熟議民主主義を想像してみる:「ソーシャルブレインズ入門」を読んでみた

冬学期の成績評価も終わり、少し頭の体操をしようかな、という年度末の今日この頃。ジムで自転車漕ぎながら、理研の藤井先生の「ソーシャルブレインズ入門」を拝読しました。

藤井先生にはApple ][を2004年にボストンで譲っていただいたというご縁があったのですが、その後はネット界隈でチラ見させていただきつつ、実は御著書をちゃんと読んでませんでした。すみません m(_._)m。

前半は脳の構造や機能に関する内容で、すなおに勉強させていただきました。でも、大変刺激的だったのは、第3章の「社会と脳の関わり」。人文社会系の方なら一度は聞いたことがあるであろうミルグラムの実験、スタンフォード監獄実験などが登場します。人社系の学者はどうしても背後に政治的信条のようなものが見え隠れするため、これらの実験についての評価も概して、人間や社会、さらに倫理や宗教というものに対する自分の考えを投影したり、政治的に生き残ったりするための手段として使いがちです。しかし、藤井先生いわく

人の中に絶対的な倫理観が存在しないかもしれないというのは、わたしたちの希望を打ち砕くショッキングな発見といえるでしょう。しかも、人から倫理観を奪うのは社会的権威という単なる記号であるという点が、さらに希望を失わせるように思います。

とクールに一刀両断されます。そして「誰でもアイヒマンになりうる」と、ユダヤ系の人々にとってはそれこそ認知的不協和の嵐を巻き起こしそうな事実をさらっと述べています。

で、脳の視点からみると、一定の規範の中で行動しているとき、その規範とは齟齬がある状況に直面(人間と対面)したとき、その状況に対応しうる新たな行動規範をつくるのであれば、脳内でも関係性の再構築が必要で、それが大きな「認知コスト」となるそうです。ですから、ミルグラムの実験も、監獄実験も、認知コストの最小化仮説を支持する実験とみなせるのでしょう。ですから、限られた脳機能のなかで、新たな行動規範を繰り返し生成しなければならない場面を回避して、「保守的な」行動を選択するのが、人間の自然なすがたであるようです。

さて、Anthony Giddensはstructuration theoryとして、人間は相互作用を経ることで新たな構造(規範)を生成し、そしてその規範にしたがった相互作用を行う、という循環構造(再帰性)を指摘しました。そのような再帰的な人間社会の実現が民主的なガバナンスのすがたである、という論調が昨今の政治哲学の主流になりつつあるかと思います。

ここで、「認知コスト」という概念を、再帰的な民主主義の概念にぶつけてみると、どういう解釈ができるでしょうか?

再帰的な、つまり行動規範や信念の対立を超え、何か新しい規範や価値観を見出そうとする取り組みは、熟議民主主義(deliberative democracy)の実践、略して熟議(deliberation)などと呼ばれます。わかりやすい例を示すならば、妊娠中絶を認めるかどうか、銃の所有を認めるかどうか、進化論を教えるべきかどうか、在日外国人参政権を認めるかどうか、そんな問題について、賛否両論、対話によって何らかの解決を図る、というか納得できる規範を見出そう、という取り組みです。さて、このような対話へ参加する人の脳内の「認知コスト」を考えてみると・・・そらおそろしい負担になるでしょうね。「あるべき論」について真っ向から異なる意見を持っている人たちと話し合って、自分の思考パターンを少し変えてでも何か合意に至るためには、相当の「認知コスト」を強いることになるでしょう。

そう考えると、熟議民主主義は高邁な理想ではありますが、人間が人間である限り、実現がかなり難しいガバナンスのかたちではないかと思えてきます。

最近は熟議民主主義批判も増えてきています。実現できないという単純な批判もあれば、熟議の思想がハードな「合理性」を前提としすぎていることへの批判も出てきています。Chantal Mouffeのradical democracy論は、熟議を標榜する左派が「非合理的」なものを排除したことで逆に、彼らからすれば「非合理」なネオナチなど極右思想を政治の中心へと持ち上げたというパラドクスを指摘しています。また最近読んだKrauseのCivil Passionsでは、熟議はカント的合理性を前提にしているけど、そもそも人間って気持ち(affect)があってはじめて政治に係る意見を持つのだから、感情を排除し、人間の外部に存在する合理性なるものを要求する熟議はおかしいと指摘しています。

これらの熟議批判も、熟議の主体は、抽象的な理性なるものではなく、人間の「脳」でしかないという当然の事実を直視すれば、よりビビッドに感じられます。そして、人間である以上「保守的」な脳は、グローバリゼーションによって洪水のようになだれ込んできた価値観を受容するための熟議など忌避して、むしろ他の価値観や規範を排除しようとする、いわゆるネトウヨのような行動へと人々を導くのでしょう。それはなんか悲しいような気もしますが、人間である以上、当然のことかもしれません。

ちなみに、ステークホルダー(関係者)間の交渉を前提とする民主主義は、再帰性をあまり考えません。むしろ、規定の構造(規範)の下で、お互いの満足度を最大化すべく、取引を行うことになります。ですので、ゲームのルールさえきちんと理解できていれば、あとはそのゲームをいかにプレイするかというだけの話ですので、「認知コスト」はあまりかからないのではないかと思います。むしろ、プレイの中に快感を見出すことさえあるかもしれません。もちろん、交渉のなかで、いままで会ったことがない人々とコミュニケーションできるようになるための「認知コスト」は発生するかもしれません。いわゆるrapportやinteraction ritualのようなものでしょうか。しかし、矮小化するわけではありませんが、成人の大多数は、初対面の人と会って話す程度の障壁は乗り越えることができるでしょう。また、この障壁は、熟議の実践でも同様に発生します。

ということで、「ソーシャルブレインズ」という視点で、コミュニケーション以上の「熟議」を実現する可能性を考えると、いくつものハードルがあることが見えてきました。最近は、政治学と脳科学の交錯でneuropoliticsという領域もできつつあるようです(勉強しなきゃ)。民主主義の思想についても、いちど「脳」という視点から再検討してみると、新しい発見があるのではないかと思います。少なくとも、民主主義の実践者は、ひとりひとりの人間であって、その中の「脳」でしかない、という事実をもう少し直視しなければいけないな、と思った次第であります。


カテゴリ: Consensus Building,Negotiation,Public policy — Masa @ 1:18 PM