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2014年5月29日

「ステークホルダーによる熟議」の誤謬:ステークホルダーはモラルを語れない

「ステークホルダーによる熟議」というフレーズを以前見かけて、そりゃないだろ!と反応した記憶が残っています。誰が言ってたのかいまいち定かではないのですが、いずれにせよおかしいと思うわけです。なぜかは以下の通り。

ステークホルダーの定義はいろいろあるでしょうがは、「何らかの案件について(受け身であったとしても)利害関係がある人たち」を指すことについては大きな異論はないでしょう。つまり、何らの案件との関係性によって、ある程度絞られた人たちのことを意味します。

一方、熟議民主主義(deliberative democracy)というものは、交渉(bargaining)では対応できない「モラル論争(moral conflict)」に対応できる(しようとする)対話・政策形成の枠組みとして出てきたわけです。少なくともGutmann and Thompsonの問題提起はそこにあったかと。ここでいうモラルとは、公衆によってすべからく順守されるべき規範であります。たとえば「銃は所持してはいけない」とか「受精卵には人命が宿るので妊娠中絶や幹細胞研究はしてはいけない」といったような規範です。ですからモラルは、国民なり市民なり住民なり、一定の領域の公衆全員に関わる問題です。もしかするとその領域を区切ることなく、世界じゅうの「人間」に関わる問題といえるかもしれません。

さて、「ステークホルダーを集めた熟議によってモラルを論じる」ことは可能でしょうか?

第一に、モラルに関するステークホルダーを特定できるかという疑問があります。モラルは公衆全体を一律に縛る規範なわけですから、利害関係の大小もなく、結果としてステークホルダーは公衆全体となるはずです。よって、対話のテーブルに実際につくステークホルダー代表者を特定することは困難ではないかという疑問があります。では国民から無作為抽出で代表者を選びましょう、という人も出てくるかもしれませんが、それでは最早、ステークホルダー代表と呼ぶことはできないでしょう。公衆全体がステークホルダーだ、と言い切ってしまったら、敢えてステークホルダーという概念を導入する必要性が消滅してしまいます。むしろ、無作為抽出等の手段で集められた人たちのことは「ミニパブリクス」と呼ぶべきでしょう。

「それは屁理屈で、実際の社会問題なら賛成派と反対派がいるだろうから、彼らをステークホルダー代表と措けばいいじゃないか」という人もいるでしょう。たとえば、銃規制なら、被害者団体とNRAみたいなのがステークホルダーじゃないかという人も出てくるかと。これが第二の論点で、モラルについての熟議をステークホルダーが実施できるか、という疑問です。

確かに、銃規制の問題についてこれらのステークホルダーが対話することは可能でしょう。しかし、それは「熟議」でしょうか?彼らが規制すべきか、しないべきかについて対話して、何か結論がでることなどあり得るでしょうか?もしかすると「交渉」は可能かもしれません。実際に、妊娠中絶の容認派と反対派の対話が米国で実施されたことがあるのですが、結論は、ティーンエージャーの望まぬ妊娠を減らすという目標に向けた活動協力でした。つまり、妊娠中絶に係るモラルについての「熟議」は成立せず、各派閥の共通の利害関心に基づく活動に向けた合意ができた、つまり「交渉」ができたわけです。もしかすると、「諸々の準備ができてないティーンエージャーは妊娠すべきでない」というモラルが析出されたと言えるのかもしれませんが、妊娠中絶に賛成・反対の人たちだけで、中絶に直接言及しないモラルについて議論してよいのか(ティーンエージャーの妊娠に係るステークホルダーを集めたわけでないのだから、ステークホルダーがモラルについて合意に至ったことにならない)という問題が残ります。やはり、何らかの政治課題についてステークホルダーを特定することはできるかもしれないけれども、その対話は「交渉」となってしまうのです。

ただし、ステークホルダーによる交渉のなかで、熟議的な側面があることは否定しません。モラルについて語られることはあるでしょう。しかし、交渉>熟議という比重は変わらないでしょう。

ということで、「ステークホルダーによる熟議」は不可能だと私は考えます。

とはいえ、『流行の「ステークホルダー」と「熟議」をとりあえずくっつけちゃおう』みたいな雰囲気に対する苛々の感情が、個人的には大きいんですけどね。


カテゴリ: Consensus Building,Negotiation,Public policy — Masa @ 2:27 PM

 

2014年5月16日

共同事実確認について「大竹まこと ゴールデンラジオ」で湯浅誠さんに言及いただきました

表題の通り、5/13の文化放送「大竹まこと ゴールデンラジオ」の1コーナー、『大竹紳士交遊録』にて、毎週火曜日ご出演の湯浅誠さんが、拙著「実践交渉学」を言及され、共同事実確認の必要性をお話されていました。

たぶん来週までポッドキャストで聴くことができます(ほんとうはiTunesやWinAmpなどが必要みたいですが、自分を含めインストールが嫌な人はPodcastのXMLファイルにmp3ファイルのURLが記載されてるのでそれをブラウザにコピペして開けば聴けます)。

大変ありがたい話ですし、大竹まことさんほか出演者のみなさんがどう反応するのか大変気になるところでありましたので、途中からですが、書き起こしてみました。

 

湯浅:まー、福島のー、若い女性と、いつだったかな、あのー、ちょっと前に話したときにも。

大竹:はい

湯浅:えー・・・そのー、結婚するしないとか、子供産む産まないとか、そのー、女性たち、若い女性にとってのその普通の友達同士の会話がね、すごいこう、意味が重くなっちゃった。

大竹:はい

湯浅:あのー、普通だったらね、あのー、もっと将来こう、かっこいい彼氏と結婚したいだの、子供は二人欲しい三人欲しいだの、普通にこう、そういう夢として話せるけれども、なんか今、その話題を、福島で若い女性が持ち出すと、そこにこう、意味が変わってきちゃってるわけです、その話をすることの意味がね。

大竹:そうだね。

湯浅:だからそういう話がなかなかその、普通にできるはずの話が普通にできない苦しさみたいなっていうのは、これはなかなかー、その場でそういう状況のなかにいないと、わかんないんだっておっしゃってて、そうだろうって思うんですよね。だからあんまりそのー・・・なんかこう、軽々しく言えないなっていうことを、まあすごく強く感じながら喋りにくさを感じながらしゃべるんだけども、あのー・・・、まぁ鼻血が出た人はいるでしょうと、さっきの郡山の方、のようにですね。

大竹:はい。

湯浅:ご指摘のように。それでー、えーと、それが、何で、どういう原因なのかをめぐっては、たぶん、両方の専門家という人がいて、で、両方の専門家は、専門的に、原因は違う。専門的に原因はこうであると言いますよね、と。だから、両方とも、専門的に、ということで、えー、別のことを言うわけですよね。で、そのときに私たちが、どういうふうに判断するかってこと、なんだとおもうんですけど。一方にやっぱり、えー・・・、その、政府に対する不信感って、やっぱり日本根強いものがあるから。

大竹:はい

湯浅:あのー、そのー、政府に対する評価をめぐってこの専門的な意見が評価されるっていう。だからー、あのー・・・結果的に、2つの専門家が2つの専門的見解を出しているんだけど、これがー、そのー・・・、ある人の、Aさん、Aという専門家の言うことが政府とおんなじだったらば、政府を信頼する人たちからは、きっとそうだ、専門的にそうなんだろう、っていうし。政府を批判する人からすると、そんなのは御用学者の言うことだから信用できねぇ、ってことになるんだろうから、あの、結果的に、なんかこう・・・その、専門的な議論、も、あの、きちんと検証するような、場がつくれないってことになっちゃうんですね。本来こういう場所は、そのー、政府とか公的な場所がつくって、で、賛成派と反対派がいますね、と。

大竹:うーん

湯浅:だから両方の議論をたたかわせるなかで、住民、なり、まぁ、市民なり国民なりが、どういうふうに考えるか、素材を提供します、ってことになってるんだけど、その場を、政府や自治体がつくった途端に、そんな場は信用できないって話になっちゃうから。・だから、そうするといったい誰がどうつくれば、みんなが、客観的な議論ができる場所として、そのー認められるのかって言うかね。それがたぶん、公共性っていう問題なんだと思うんですけど、その公共的な空間が、非常にいま、つくるのが難しく成っちゃってるから、どうしても誰がつくったかってところで、もう、なんか、それで結論が決まっちゃうっていうかね。あの、あの人たちがつくった場だから、信用できない。この人たちがつくった場だったら、こんど別の人たちが、あー、あいつらがセッティングした場だから信用できない。そういう話になると、結局みんなで、そのー、対等に議論をたたかわせる、あるいは、そこでこう真実を探求する、えー、客観的な判断をする場所って、どうやってつくっていけんだろうと。

大竹:うん

湯浅:これがー・・・なんかー、つくづく、今回の問題の、ま、今回のこの美味しんぼ問題だけじゃないですけどね。ずーっと前からだけども、問題だな、と思いますね。

大竹:あの、その、両方の専門家があって、いういま、ご意見おっしゃったけど。なんか・・・県とかのほうが、早く反応してなかった?この、否定的な。

湯浅:あ、今回?あ、そうなの?えー、俺そこまでちょっと話してないけど。

アナウンサー:美味しんぼが出たことに対する県の立場の表明ということですか?

大竹:そうそうそう

アナウンサー:もちろんあのー、そのー、風評被害のこととか、そういうことを心配して県としてはそういう事実はないということを、いち早く、出したということなんでしょうね。

大竹:言ったんだけど。なんか・・・そっちのほうの、専門家よりも前に、そういう意見が、こう、バって出てきて。

湯浅:うんうんうん

大竹:ま、俺には、なんか、少し躍起になってる感じが・・・したんだけども。

湯浅:それはありうるかも知れないけど、でもたぶん、県が言うことの背景には、県の見解を裏付けるような専門家の意見がある、あったんでしょう。いままでこの3年間の間に。

大竹:うーん

湯浅:そういうことを踏まえて、まぁ、あのー、非常に迅速に言ったのは、たぶん、政治的な配慮がもちろん大竹さん言うようにあるからだと思うけれども、ま、たぶん、そういうことが、あのー、背後にはあるんだと思うんですよ。いや、つまり私が言いたいのはね、あのね。この話、今日とりあげるって知らなく、知らなかったんだけど、たまたま、

大竹:はい、ええ

湯浅:松浦マサヒコ(注:正しくは「マサヒロ」ですw)さんっていう方が、書いてる、交渉学、いかに合意形成を図るか、っていう本をいま読んでたのよね。

大竹:はい

湯浅:そしたらー、これ原発事故の前に書かれた本なんだけど、原発・・・事故とか、原子力発電の安全性をめぐっての議論みたいなのが、アメリカの議論だとかとりあげられててね、彼はあの、その、そういう専門家の、えー、いろいろ出すそのー、証拠なんかを、弁護科学って言ってるんですよ。

大竹:あぁ

湯浅:そういう言葉があるみたい。

大竹:はいはい

湯浅:要するに、ある立場を裏付けるための専門資料、そういうのを出して、やるっていうのは、ある種の弁護科学という。だから、弁護科学同士の戦いになるわけだよね。そのー、危険だっていうのを、擁護する弁護科学があり、安全だっていうのを擁護する弁護科学がありと、で、そんときに、えー、結果的にまぁいま私が話したことなんだけど、あの大事なことは、共同事実確認っていうことを、やることで、で、共同事実確認っていうのはそれぞれのあのー、弁護科学が、どういう、前提で成り立っているのかを、ちゃんとお互い出し合うことだと。つまりたとえばごみ焼却場ができると、でそしたら周辺に健康被害が及ぶと、いうふうな試算がでますわね。んでそれによって、なんかこう、がんの発生率が5倍に増えますみたいな

大竹:ふんふん

湯浅:で、そうすると、その5倍に発生しますっていう結論は、たとえばずーっと24時間窓を開けはなしてて、そのー、それがえーと、焼却場で24時間ずっと燃やし続けてみたいな、いろんな仮定に仮定を重ねて、5倍ていうのがでると。

大竹:はい

湯浅:で、逆にもっと、少ない、ふうに燃やして街の人たちがちょっとしか外に出なくて、みたいな仮定をすると、別になんの被害もありません、みたいな話になると。だからそのー、5倍だ、なのか安全なのかっていうのを戦わせる前に、どういう仮定のもとで、その資産を出しているのかを、それを共同のテーブルで、やらないといけないし、そのためには、共同のテーブルを集めることで、その、それをま、差配する人たちが客観的な学者さんたちだ、あるいは専門家なんだっていうふうに周りが認めるような人たちじゃないといけないと。それがいないってことなんですよ。

大竹:そうですねー

湯浅:それがいない。

アナウンサー:あらゆる場面で、まぁこのー、福島の問題とか原発の問題とか、もそうですけど、たとえばそのー、いま安倍政権がその集団的安全保障に関するそのー、行使容認というふうに動こうとしてますけど、そのバックボーンになるのが、その法制懇、えー=、安全保障に関する法的基盤の再構築に関する懇談会、これのメンバーが、もともと安倍さんのこう、考える意向に沿うようなメンバーで固めてきて、で、それで結果こうなりました。あ、それはごもっともですじゃぁこうしましょうではなくって、両方の立場からその意見が出てきて、さぁ最終的にじゃぁ、みなさんどうしましょうかっていうようなのが、あらゆるジャンルで必要になるっていうようなことですね。

湯浅:それでそんなのはきれいごとでね、あのー、世の中もっと政治的に動いてるんだから、あのー、そんな、あのー、簡単に客観性なんて言えないんだ、っていうのはまさにその通りなのよ。それはいまの集団的自衛権の法制懇の議論だって、えー、NHKの経営委員のあの人だって、えー、もう、それは挙げ始めればいくらでもあるし、私だっていろいろ言ってることはある。だけどもー、だから、じゃぁ、みんなそうなんだっていうふうにすると、たぶん、我々は専門的なことはわかんないからね。

大竹:はい

湯浅:そうすると、もう、ほとんど宗教、争いになるわけですよ。どっちを信じるか、みたいなね。だけど、この話に出口はないよね。でそれで、このー、宗教争いで、いちばん痛むのは、さっき話したような、現地の人たちとか、若い女の子とか、そういう話になっていくんだとしたら、やっぱその、山のようにそういう話があることはもう、俺ももう、それはもう、わかっているつもりだけども。だからといって、じゃぁ、結局、その、どっちを信じるか、信じる者どうしの争いなんだって、やっぱり、こう、身も蓋もない言い方はしたくない。なーんとかそっから、あのー・・・その先を、見据えて、いきたいなと思うんだけどね。

アナウンサー:メール読んでると、同じ福島に住んでいる人でも、美味しんぼよくやってくれたっていう人と、とんでもないことをやってくれたっていう人に、こう引き裂かれちゃうこと自体がものすごい悲劇だなっていう感じがしますね。

湯浅:いやー、その繰り返しじゃないですか、ずーっともうこの3年間。

真鍋:批判して結局どうしたいんでしょうね。これまた批判したことによって美味しんぼ側が、いや、なんかそんな、載せちゃってすみませんでしたみたいなのを載せちゃったらそれはそれでまた、ね、政府側にも批判がいくだろうし。結局どこに落ち着けたいのかがいまのところちょっとよくわからない。

大竹:ま、そういうのも・・・うん、ま、もちろん、湯浅さんの言うとおりだけど、でも、その前に、えー、9ヵ月後には収束宣言は出してるし、アンダーコントロールとは言ってるし、っていう、なんかこう、踊ってる活字にみんな疑問を持ってるわけじゃない

湯浅:もちろんそうですよ。もちろんそう。だからまぁ、東電、国のこの間のやり方が信用できないから、っていう、文脈でね、そういう話になることも、あの、無視するつもりはないんだ。

大竹:間違ってるんですよ、それは、間違ってる。

湯浅:いや・・・間違ってない・・・間違ってない・・・

アナウンサー:お時間でございます。苦悩が伝わってきました

湯浅:そこで話が終わるとたぶん・・・

大竹:いや、ごめんなさいごめんなさい。責めてるわけではないので。

真鍋:この話題また進展が来週まであるんでしょうか・・・

 

ということで、大竹さんとしては、信用できない(信用できなくなるようなことをしてきた)政府や東電を対等な立場で位置づけることに違和感があるようです。確かにこれが一般の多くの人たちの感性なのかなという気もします。

 


2014年2月7日

脳科学からみた熟議民主主義を想像してみる:「ソーシャルブレインズ入門」を読んでみた

冬学期の成績評価も終わり、少し頭の体操をしようかな、という年度末の今日この頃。ジムで自転車漕ぎながら、理研の藤井先生の「ソーシャルブレインズ入門」を拝読しました。

藤井先生にはApple ][を2004年にボストンで譲っていただいたというご縁があったのですが、その後はネット界隈でチラ見させていただきつつ、実は御著書をちゃんと読んでませんでした。すみません m(_._)m。

前半は脳の構造や機能に関する内容で、すなおに勉強させていただきました。でも、大変刺激的だったのは、第3章の「社会と脳の関わり」。人文社会系の方なら一度は聞いたことがあるであろうミルグラムの実験、スタンフォード監獄実験などが登場します。人社系の学者はどうしても背後に政治的信条のようなものが見え隠れするため、これらの実験についての評価も概して、人間や社会、さらに倫理や宗教というものに対する自分の考えを投影したり、政治的に生き残ったりするための手段として使いがちです。しかし、藤井先生いわく

人の中に絶対的な倫理観が存在しないかもしれないというのは、わたしたちの希望を打ち砕くショッキングな発見といえるでしょう。しかも、人から倫理観を奪うのは社会的権威という単なる記号であるという点が、さらに希望を失わせるように思います。

とクールに一刀両断されます。そして「誰でもアイヒマンになりうる」と、ユダヤ系の人々にとってはそれこそ認知的不協和の嵐を巻き起こしそうな事実をさらっと述べています。

で、脳の視点からみると、一定の規範の中で行動しているとき、その規範とは齟齬がある状況に直面(人間と対面)したとき、その状況に対応しうる新たな行動規範をつくるのであれば、脳内でも関係性の再構築が必要で、それが大きな「認知コスト」となるそうです。ですから、ミルグラムの実験も、監獄実験も、認知コストの最小化仮説を支持する実験とみなせるのでしょう。ですから、限られた脳機能のなかで、新たな行動規範を繰り返し生成しなければならない場面を回避して、「保守的な」行動を選択するのが、人間の自然なすがたであるようです。

さて、Anthony Giddensはstructuration theoryとして、人間は相互作用を経ることで新たな構造(規範)を生成し、そしてその規範にしたがった相互作用を行う、という循環構造(再帰性)を指摘しました。そのような再帰的な人間社会の実現が民主的なガバナンスのすがたである、という論調が昨今の政治哲学の主流になりつつあるかと思います。

ここで、「認知コスト」という概念を、再帰的な民主主義の概念にぶつけてみると、どういう解釈ができるでしょうか?

再帰的な、つまり行動規範や信念の対立を超え、何か新しい規範や価値観を見出そうとする取り組みは、熟議民主主義(deliberative democracy)の実践、略して熟議(deliberation)などと呼ばれます。わかりやすい例を示すならば、妊娠中絶を認めるかどうか、銃の所有を認めるかどうか、進化論を教えるべきかどうか、在日外国人参政権を認めるかどうか、そんな問題について、賛否両論、対話によって何らかの解決を図る、というか納得できる規範を見出そう、という取り組みです。さて、このような対話へ参加する人の脳内の「認知コスト」を考えてみると・・・そらおそろしい負担になるでしょうね。「あるべき論」について真っ向から異なる意見を持っている人たちと話し合って、自分の思考パターンを少し変えてでも何か合意に至るためには、相当の「認知コスト」を強いることになるでしょう。

そう考えると、熟議民主主義は高邁な理想ではありますが、人間が人間である限り、実現がかなり難しいガバナンスのかたちではないかと思えてきます。

最近は熟議民主主義批判も増えてきています。実現できないという単純な批判もあれば、熟議の思想がハードな「合理性」を前提としすぎていることへの批判も出てきています。Chantal Mouffeのradical democracy論は、熟議を標榜する左派が「非合理的」なものを排除したことで逆に、彼らからすれば「非合理」なネオナチなど極右思想を政治の中心へと持ち上げたというパラドクスを指摘しています。また最近読んだKrauseのCivil Passionsでは、熟議はカント的合理性を前提にしているけど、そもそも人間って気持ち(affect)があってはじめて政治に係る意見を持つのだから、感情を排除し、人間の外部に存在する合理性なるものを要求する熟議はおかしいと指摘しています。

これらの熟議批判も、熟議の主体は、抽象的な理性なるものではなく、人間の「脳」でしかないという当然の事実を直視すれば、よりビビッドに感じられます。そして、人間である以上「保守的」な脳は、グローバリゼーションによって洪水のようになだれ込んできた価値観を受容するための熟議など忌避して、むしろ他の価値観や規範を排除しようとする、いわゆるネトウヨのような行動へと人々を導くのでしょう。それはなんか悲しいような気もしますが、人間である以上、当然のことかもしれません。

ちなみに、ステークホルダー(関係者)間の交渉を前提とする民主主義は、再帰性をあまり考えません。むしろ、規定の構造(規範)の下で、お互いの満足度を最大化すべく、取引を行うことになります。ですので、ゲームのルールさえきちんと理解できていれば、あとはそのゲームをいかにプレイするかというだけの話ですので、「認知コスト」はあまりかからないのではないかと思います。むしろ、プレイの中に快感を見出すことさえあるかもしれません。もちろん、交渉のなかで、いままで会ったことがない人々とコミュニケーションできるようになるための「認知コスト」は発生するかもしれません。いわゆるrapportやinteraction ritualのようなものでしょうか。しかし、矮小化するわけではありませんが、成人の大多数は、初対面の人と会って話す程度の障壁は乗り越えることができるでしょう。また、この障壁は、熟議の実践でも同様に発生します。

ということで、「ソーシャルブレインズ」という視点で、コミュニケーション以上の「熟議」を実現する可能性を考えると、いくつものハードルがあることが見えてきました。最近は、政治学と脳科学の交錯でneuropoliticsという領域もできつつあるようです(勉強しなきゃ)。民主主義の思想についても、いちど「脳」という視点から再検討してみると、新しい発見があるのではないかと思います。少なくとも、民主主義の実践者は、ひとりひとりの人間であって、その中の「脳」でしかない、という事実をもう少し直視しなければいけないな、と思った次第であります。


カテゴリ: Consensus Building,Negotiation,Public policy — Masa @ 1:18 PM