2015年10月22日
昨日、東大公共政策大学院で自分が担当している「海洋科学技術政策論」の講義で、オランダ・ラテナウ研究所(Rathenau Institute)の前所長のヤン・スタマンさんに、科学と社会、テクノロジーアセスメントについて講義していただきました。
この講義は「海洋」と名付けられていることもあって、受講生はかならずしもSTS(科学技術社会論)とか科学技術政策とかの専門性があるわけでもないので、スタマンさんの事例に基づくお話は、問題提起としていいきっかけになったんじゃないかと思います(その前に英語での講義についてきてもらえたのかどうか、心配ではあるのですが)。
きのうのスタマンさんのお話の要点は、新しい科学技術イノベーションが社会に及ぼす影響について、研究してレポートなど書きつつも、メディアをうまく使って問題提起して、政治の意思決定に影響を与えるという一連の流れをつくる重要性を指摘されたことにあるかと思います。いろんな技術がもたらす「想定外」についてできるかぎり早めに、社会に対して警鐘を鳴らす機能を実装している(しようとしている)ことで、オランダあるいは欧州の(科学技術)ガバナンスの強靭性が高まっているようにも思えます。
さて日本の(科学技術)ガバナンスにおいて、同じようなメカニズムが存在するでしょうか?市民社会組織や学者などがいろいろ意見を言うことはあるでしょうが、ガバナンスのメカニズムとして、(公立のラテナウ研究所のように)ある程度制度化された形で、技術導入の社会影響について社会に開かれた議論を行う仕掛けっていうのは、存在しないと言っていいんじゃないかと思います。
たとえば、ロボット技術が導入されたとき、どういういいこと、悪いことが起きるでしょうか?技術者などには「いいこと」しか言わない動機づけがあるので、「いいこと」しか議論されないでしょう。外部の人間が、批判的な目で問題を指摘しないことには、技術の利用者であるわたしたちはリスクを認識せずに、技術に投資し、社会の一部に組み込んでしまうことになりかねません。
新車情報だって、メーカーにだけ情報を依存していたら、いいことばっかし出てくるから、自動車評論家なり消費者団体の評価が重要になってくるわけです(そういう意味で、科学技術ジャーナリズムを考える人は、日本の自動車ジャーナリズムを創造されてきた方々の功績から学ぶところが多いかも)。
Pepperだって、あれがどんな影響をもたらすのかを評価する場があっていいでしょうに。
もちろん「ダメ・ダメ・ダメ・ダメ~あれもダメ、これもダメ♪」って教条主義な雰囲気の議論の場をつくったら、世間から疎まれるでしょうね。むしろ、「これ、ヤバいかもしれない」って不安感をあおるくらいで、ちょうどいいのかもしれません。そうして議論になった結果、「やっぱ、そのくらいのインパクトなら大丈夫だわ」って結論が出れば、それはそれでいいことでしょうし。
そんな現場を理屈抜きで10年以上仕切ってきたスタマンさんの知恵から学ぶことは多そうです。
【広告】
スタマンさんの公開セミナーを本日(10月22日)15時から東大で開催します!
http://stig.pp.u-tokyo.ac.jp/?p=1122
2015年5月25日
1)現場レベルでなにか先進的な取り組みが行われる
2)学者や著名人が講演などで先進事例だと持ち上げる
3)政治家やコンサルが寄ってたかって視察に来ては是非真似しましょうと騒ぎ立てる
というのが日本のムラのボトムアップなイノベーションの成長(膨張)過程の典型パターンじゃないでしょうか。
そして、
4)別のムラで真似しようしても、事業がうまくいかず破綻して、補助金で買った機械だけが残る
というのが典型的なオチでしょう。
なんでこういうふうになるのでしょう。最初の「成功事例」は、そのムラの文脈に適した形で事業が設計されたから成功したのであって、他のムラに技術や制度を表面的に移転しても、他のムラの文脈と適合しないから、当初のムラのように機能しない、というのが一般的な解釈かと思います。これは政策移転論で説明がつきます。
とはいえ、イノベーティブな取り組みをいかに拡大横展開できるのか、は環境政策の文脈ではいま、いちばん難しい課題となってきているように思えます。特に、欧州でそのような議論が盛んになってきているようで、身の回りでもそういう議論が欧州からよく聞こえるようになってきました。
日本のこれまでの補助金政策を見ているとシニカルにとらえざるを得ない感じもしますが、シニカルなスタンスで否定しつづけていても前に進まないでしょう。
自分自身は最近、交渉による合意のオルタナティブとして、トランジション・マネジメントに関心を持っていますが、その議論なかでも、トランジションに向けたニッチ技術の小規模実証実験のあとで、その結果を使っていかに制度化して横展開していくか、その部分が難しいポイントとして指摘されています。逆に小規模な実験を立ち上げるところまでは、意外と容易なようにも思えます。
日本の補助金事例も、失敗はいくらでもあるでしょうが、むしろ成功させるためのコツがどこにあるのか、精神論ではなくて制度的かつ実証研究として、解明していきたいところです。
2014年5月30日
Jonathan Haidtの”The Righteous Mind: Why Good People are Divided by Politics and Religion”を最近読んでからというもの、けっこう影響を受けているわけです。
で、この本の中で、道徳心理学(moral psychology)の実験が例示されています。人間が倫理にまつわる難しい問いかけをされたときに、いくら反証を出されても、自分の結論をなかなか変えようとしないし、反証されて追い込まれれば追い込まれるほど「それってとにかく違和感あるから許せない」みたいな回答しかできなくなるそうです。
この事例をもとに、人間がモラルに関する判断をするときには、自分の理性に問いかけて判断をだしているのではなく、むしろ瞬間的に脳内で判断が行われた後でそれを正当化するための理由を考えているのかもしれないということが指摘されているようです(私の誤読でなければよいのですが・・・)。
もしこの仮説が正しければ、現実問題として、モラルに関する論争が存在するとき、この論争で相対する当事者たちが、お互いにそれぞれの主張を理論づけて対話したとしても、何らかの和解や相互理解につながるはずはないということになります。論理をもって相手を説得しようとしても、そしてたとえ相手の論理を完全に棄却することができたとしても、お相手は、自分の判断を正当化するために別の論拠を探しに行くだけです。脳内で「判断」が先にできあがってしまっているのですから、後づけの「論理」をいくら否定しても、「判断」は変わらないわけです。
そうなると、いわゆる熟議(deliberation)なるもの、つまりモラルに関する論争を、相互の理性に訴えかける対話を通じて何らかの合意にいたらしめる可能性を否定しているようにも思えます(もちろん二項対立型の論争が存在しない状況、つまり「判断」ができあがっていない状況については、熟議は可能なのかもしれません)。
結果として、異なるモラルの下で結集する人々の間で永遠にたたかいを続けるしかないという、なんというか、ファシズムの政治思想につながりそうな気もします。実際、Wikipediaで見てみたら、Haidt氏はそういう理由で批判されているようです。
しかしよく読んでみると、この本は、そういうシニカルな結論で終わらせていないと思います。彼が言いたいのは、「論理」で相手を説得しようとしても無駄なんだから、相手の「判断」に対して直接訴えかけないといけないんだよ、ということなんじゃないかと思います。
実際、それぞれの人の脳内にある「判断」は、絶対に変わらないものじゃなくて、状況によって変わるものだそうです。これは以前読んだ藤井先生の本でも指摘されていることかと思います。
じゃぁ、どういう状況になれば、人間が「判断」を下す回路が柔軟になって、再構築を促すことができるのでしょうか?
いま自分が関心があるのがこの問題で、この「判断の回路をやわらかくする介入」を実用的な工程として定式化できれば、いろんな対話の場面で有用じゃないでしょうか。
それこそ、このステップを踏めないと、モラル論争に対応できる熟議など不可能じゃないかとも思えてきています。もしかすると、地域紛争でさえも、解決の糸口が見えてくるかもしれません。
では、どういう「工程」があり得るでしょうか?ひとつの着想としては、Kurt LewinやEd Scheinの組織変革(organizational change)の3ステップが援用できるかなと考えています。彼らは、組織を変えるためには、unfreeze -> change -> (re)freezeという3ステップが必要だと言っています。いちばんの鍵はunfreezeのステップで、まず、組織内部の人たちが自分の組織の現状には問題があることを認める(彼らに認めさせる)ことから、組織変革が始まるそうです。この「自分たちが間違っている(かもしれない)ことを認める」という大きな壁を越えることは、まさに、自分の「判断の回路をやわらかくする」ことに近いのではないかと思います。他にもいろいろな手段はあると思いますので、いろいろな先行事例を学ばせていただいて、援用していきたいなぁと漠然と考えています。
いずれにせよ、この「判断」という謎の領域こそが、これからの合意形成を考える上でのフロンティアなのではないかと思います。