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2016年6月17日

「認知資本主義」読了

twitterで見かけて、何気なくおもしろそうだったので読んでみました、この本。

とてもよい意味で期待を裏切るものでした。

まずはどうでもいいことですが表紙。ネットで見ると黄色に見えますが、これ、金色です。とてもゴージャスw。

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そんなことはどうでもよくて、中身なのですが、認知資本主義、マルチチュード論(←これはまだ小職完全に理解しきれず)などを参照しながら、「労働」の変容を説いています。僕はまだ古い思想体系に凝り固まっているのかもしれませんが、労働の対価として賃金が支払われるのであって、個人が生存のために手段として労働を提供することを前提にいろいろなモノゴトを考えておりました。しかし、認知資本主義においては、労働と余暇の間に境界線を描くこと困難で、生きることこれ即ち労働(生産)という非物質的労働が基本となってしまうようなのです。

実際、ボクにとって最近とても「不思議」な現象って、これで説明できることが多いような気がするのです。地方やイナカの「まちづくり」のような活動をする人々、より広い意味で「最先端」に見えるような活動をしている人々を遠くから眺めていると、どこまでが彼らの労働で、どこまでがプライベートなのか、その境界線が全く見えないのが、ボクにとって不気味で仕方ないのです。どこで生活費を稼いで家計を維持してるのか、謎なんですよね。もちろん何か手段があるのでしょうが。しかも、優秀と目される人々が、何かを生産しているようには見受けられないのです。失礼ですが、なんか、チャラチャラしてるな、という印象が強いわけです。

でも、確かに認知資本主義の時代においては、需要と供給がマッチしてそこに労働が発生し、生産性向上のための都市集積やイノベーションが発生するという従来のモデルを踏襲している以上、何もブレークスルーは起きない。むしろ、そもそも何が需要か、という人々の認知システムを創造してしまうことのほうに大きな意味があるのでしょう。だからこそ、現在、先駆者のように見える人たちは、従来の「生産」や「労働」という概念の枠では説明できない、新しい価値システムの創造に勤しんでいるのかもしれません。

僕は80~90年代の歌謡曲をいまだに愛好する保守的な人間なので、こういう、社会システムの大きな変革を目の当たりにすると、困惑するし、気持ち悪いなぁ、軽薄だなぁ・・・という気持ちを抱いて、自分の心を落ち着けようとするのかもしれませんが、もしかすると、従来の「労働」概念を捨てないことには通約不可能な、経済社会システムの大きな変革が、この20年程度で進行していくのかなぁ・・・なんて思えてきました。

とりあえず、復習がてら、この本のなかで何度も参照されている以下の本をいま読みはじめたところです。新しい都市(まちづくり)の姿を模索する必要性をひしひしと感じています。


カテゴリ: Public policy,Urban planning — Masa @ 12:56 PM