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2015年10月23日

温暖化適応計画はどんなもんだろうね?

時事ドットコム:災害、農業被害を「最小化」=温暖化で初の適応計画-COP21で説明へ・政府.

こんな動きがあったのですね。温暖化対策を世界的に見れば、緩和(ミチゲーション:mitigation)から適応(アダプテーション:adaptation)へと焦点が移行したのはけっこう前(5年くらい前?)だったかと思いますが、日本政府として適応を前面に打ち出した政策はこれがはじめてということでしょうか。自治体レベルではすでに前から取り組みがありますし、環境政策の中で適応の必要性はすでに書かれてきたでしょうから、これまで何もやってこなかったってことはないでしょうが、「初の適応計画」と言われてしまうと、なんかとても遅れた取り組みのように見えなくもないですわ。

まぁいずれにせよ中身を見てみないと良し悪しは判らないわけですが、リンク先にある施策の一覧表を見ると、いかにも各省庁の政策を積み上げてるなー、という印象です。それぞれの列が各省庁(局)に対応してますわ。謎なのが「産業経済」で、これは観光庁マターに見えますが・・・。あと末尾の「地域行事への影響」って、生態系サービス関係の学者が「文化的サービスも・・・」と主張した結果のような予感もします。

で、分野別対策に盛り込んでもらえれば、予算獲得の際に使えるので各省庁にとっては便利でしょうが、本当にこれらの施策が有効かどうかって疑問は残るわけです。

以前、埼玉県で調査したときには、農家の人たちにとって適応策はほとんど関心がなくて、喫緊の問題への対応(たとえばTPP)に追われているし、気候変動で作物が育たなくなる数十年後に自分(や子供)が日本国内で農家をやっているかどうかもわからないわけです(参照:「農業分野の気候変動適応策検討のためのステークホルダー分析の提案-埼玉県における事例」)。関税撤廃なんかしてたら、高温に強いコメをつくったところで、50年後に日本でコメを生産する経済性はあるの?ってことです

堤防だって、整備したところで、50年後の日本で、そんなイナカにどれくらい人が住んで、どれくらい生産しているのでしょうか。イナカでも、コンパクトシティってことで集住していただいて、農地は氾濫原扱いしちゃったほうが政府支出を減らせるし、未来的かもしれません。

現状の人間の住まい方、働き方などをベースに施策案を評価してもしょうがないわけです。2100年に僕らの子供たちなり孫たちがどういう生活をしているのか、どういう仕事をしているのか。それをベースに施策を打っていかないといけないのに、いまと同じような生活や仕事を前提に施策が打たれているのではないかなーと感じてしまうわけです。まぁ霞ヶ関・永田町の人たちに、現在のステークホルダーの圧力を感じずに未来志向で政策をつくることまで期待するのは、制度的に無茶振りかもしれませんが。

ということで、いわゆるバックキャスティングでこれらの適応策がリストアップされているのであれば、実はいい計画なのかもしれませんが、そうじゃなかったら、概算要求の資料でしかないよなー、と悲観的にならざるを得ないわけです。

 


カテゴリ: Environmental policy — Masa @ 12:04 PM

 

2015年10月22日

日本国内で科学技術イノベーションの社会影響を議論する「場」がない

昨日、東大公共政策大学院で自分が担当している「海洋科学技術政策論」の講義で、オランダ・ラテナウ研究所(Rathenau Institute)の前所長のヤン・スタマンさんに、科学と社会、テクノロジーアセスメントについて講義していただきました。

この講義は「海洋」と名付けられていることもあって、受講生はかならずしもSTS(科学技術社会論)とか科学技術政策とかの専門性があるわけでもないので、スタマンさんの事例に基づくお話は、問題提起としていいきっかけになったんじゃないかと思います(その前に英語での講義についてきてもらえたのかどうか、心配ではあるのですが)。

きのうのスタマンさんのお話の要点は、新しい科学技術イノベーションが社会に及ぼす影響について、研究してレポートなど書きつつも、メディアをうまく使って問題提起して、政治の意思決定に影響を与えるという一連の流れをつくる重要性を指摘されたことにあるかと思います。いろんな技術がもたらす「想定外」についてできるかぎり早めに、社会に対して警鐘を鳴らす機能を実装している(しようとしている)ことで、オランダあるいは欧州の(科学技術)ガバナンスの強靭性が高まっているようにも思えます。

さて日本の(科学技術)ガバナンスにおいて、同じようなメカニズムが存在するでしょうか?市民社会組織や学者などがいろいろ意見を言うことはあるでしょうが、ガバナンスのメカニズムとして、(公立のラテナウ研究所のように)ある程度制度化された形で、技術導入の社会影響について社会に開かれた議論を行う仕掛けっていうのは、存在しないと言っていいんじゃないかと思います。

たとえば、ロボット技術が導入されたとき、どういういいこと、悪いことが起きるでしょうか?技術者などには「いいこと」しか言わない動機づけがあるので、「いいこと」しか議論されないでしょう。外部の人間が、批判的な目で問題を指摘しないことには、技術の利用者であるわたしたちはリスクを認識せずに、技術に投資し、社会の一部に組み込んでしまうことになりかねません。

新車情報だって、メーカーにだけ情報を依存していたら、いいことばっかし出てくるから、自動車評論家なり消費者団体の評価が重要になってくるわけです(そういう意味で、科学技術ジャーナリズムを考える人は、日本の自動車ジャーナリズムを創造されてきた方々の功績から学ぶところが多いかも)。

Pepperだって、あれがどんな影響をもたらすのかを評価する場があっていいでしょうに。

もちろん「ダメ・ダメ・ダメ・ダメ~あれもダメ、これもダメ♪」って教条主義な雰囲気の議論の場をつくったら、世間から疎まれるでしょうね。むしろ、「これ、ヤバいかもしれない」って不安感をあおるくらいで、ちょうどいいのかもしれません。そうして議論になった結果、「やっぱ、そのくらいのインパクトなら大丈夫だわ」って結論が出れば、それはそれでいいことでしょうし。

そんな現場を理屈抜きで10年以上仕切ってきたスタマンさんの知恵から学ぶことは多そうです。

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スタマンさんの公開セミナーを本日(10月22日)15時から東大で開催します!
http://stig.pp.u-tokyo.ac.jp/?p=1122


カテゴリ: Public policy,Science/Technology Policy — admin @ 9:36 AM

 

2015年10月20日

SNSは人間を愚かにするかもしれない

ツイッターで毒にもならない愚言ばかり吐いているあたくしです。

とはいえ、ツイッターで大炎上とか、LINEで喧嘩でフルボッコとか、そういう人たちに比べればまだ穏やかな日々を送れているのかもしれません。

先日、何気なく自分のブログの過去記事をダラダラと読み返してみたのですが、自分なりに有益なことも書き残してあって、今年の科研費申請の企画の種を見つけることもできました。そういえば「昔、(松浦の)ブログ読んでました」というめずらしい人に、年に1回くらいのペースで遭遇することもあります。

なら、ブログ書いてるほうが自分とっていいはずなので、「なんでtwitterに逃げてるのかな?」と我ながら不思議に思って、考えてみました。

やはり、短文投稿っていうのは、まさに口を突いてでる「つぶやき」であって、その「つぶやき」には熟慮がないんですわ。インプットに対する身体反応としてのつぶやきなわけです。

ブログはさすがに投稿前に一度読み直したり、書いている途中で「あ、論理破綻してるな」と気づいて書き直したりと、書きながらではありますが、それなりの熟慮が行われているのでしょう(低レベルかもしれませんが)。

ということでtwitterやLINEの投稿っていうのは、やっぱし情動のようなもので、考えるエネルギーの投入は省けんだろうけど、そこに何か思慮みたいなものはないんでしょうね。みんながそうだとは断言しませんが、すくなくとも、あたしの場合は。

それにくらべてブログだと、複数の要素を組み合わせて書くわけで、リフレックスとしての身体反応では文書が成立しないわけです。

そういう意味では、twitterのビッグデータっていうのは、情動的な反応の集合体でしかないんでしょうね。それはそれで価値はあるんだとは思います。しかし、その反応がもたらす影響とか、自分にはねかえってくる影響とか、そこらへんを反省(リフレクト)する過程は、twitter自体に組み込まれていないですよね。横暴な発言やクソリプとかもタレ流して、反省したら気を病んじゃうので、反省しないほうが勝ち組だったりします。

ということでまたブログに戻ろうかな、なんて思う今日この頃であります。


カテゴリ: Computers — admin @ 4:41 PM