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2022年11月23日

そんなに「共感」したいのか?

最近、某ドラマにハマっているのですが、結果として、Twitterのトレンド欄なんかで市井の一般人の感想めいたツイートを見かけることが多くなりました。

そのなかで先日、「共感できない。」みたいなネガティブな記述があり、おやおやと思いました。

「つまらない」とか「おもしろくない」とかいうのであれば素直な感想に思いますが、なんで「共感」なんてややこしい漢字を使うのでしょう。

一つには、自分の感情(情動)をそのまま表現すると頭が悪そうに見えるので、自分を客体化して、「共感していない」という状態をあたかも客観的に観察しているかのように表現することで、自分を賢そうに見せるという目的があるのかもしれません。

そんな表現を意図的に使っているのであれば、まぁ悪い話ではないというか、自撮りの加工などと同じ、「自分を盛る」手段でしかないので、本質的には「つまんない」と言ってるだけなんだと解釈すればいいのだろうと思います。まぁ言葉遊びというか、言語の可塑性というか。

問題はもう一つの解釈で、「共感できない。」と不満のツイートを書き込む人が、本気で、テレビドラマの制作者に対して、自分(たち)が「共感できる」ドラマを要求しているのかもしれません。

「つまんない」であれば、きわめて個人的な感想ですし、あくまでそのツイ主の心のなかに存在する気持ちの表現です。

しかし「共感」となると、「共」という漢字が使われているせいか、個人の心の中にあるものでなく、対象(この場合はテレビドラマ)との間に存在する間主体的なものを意味するように感じられます。

よって、「共感できない。」とは、ツイ主と制作者の間に「共感」が存在していないことを問題視するツイートだと解釈することもできるでしょう。

そのようなツイートが、暗に共感の生成を要求しているのであれば、それは、制作者に対して、「自分が心地よくなれるドラマにしてくれ」という要求なのではないでしょうか。

「つまんない」であれば単なる感想だし、制作者に対して改善を要求しているわけでもないので、ただのひとりごと(ツイート)で完結します。それが「共感できない」となると、「私に合わせた内容に変えろ」という制作者への圧を発生させます。

しかしその要求は、社会的にみて何か意味があるものでしょうか?

個人的には不機嫌な赤ちゃんの泣き声と同じ種類のものに聞こえます。

もちろん、劇場と同じように、テレビでも視聴者と制作者の間にリアルタイムな相互作用が可能となれば、それはおもしろいことだと思います。

しかし「共感できない」というツイートは、劇場での観客の笑い声やすすり泣き、あるいはヤジや掛け声ではなく、むしろあるひとりの観客がいきなり立ち上がって「もっと私に合ったストーリーにしてください!」と叫び出すようなものではないでしょうか。

なので「共感できない」という言い方をする人には、独善性というか、「私をもっと見て」「自分が好き」みたいな、ワガママな自我を感じてしまうのですよ。

言い換えると、共感の「共」は本来、制作者と多数の視聴者など、みんなの間に存在している共有されたものなのに、「共感できない」というツイ主は、自分と制作者の二者間で独り占めしてしているように見えるのかもしれません。

「共感できない。」というツイートへの違和感から少し考察してみましたが、やはり「共感できない。」という表現はできれば回避したほうが無難なんでしょうね。


カテゴリ: Entertainment,Media — Masa @ 7:30 AM