2015年11月19日
メタ・デモクラシーの視点/フランスのブルカ論争で思い出した
フランスのテロ事件について考えさせられることが多い今日この頃であります。
フランスにおけるイスラムといえば、個人的にはブルカ(イスラムの女性が着用する頭巾)着用禁止の論争が妙に記憶に残っています。もう5年くらい前の出来事でしょうか、公的な場面でブルカの着用禁止を明確に打ち出したフランスという国は不思議だなぁ、反イスラム的感情が強い国なのかなぁ・・・と漠然と思っていました。そんなことを授業で話していたら、フランスから日本留学で来ていた学生に、いやいやそうじゃなくて、フランスではライシテという概念が強くて、行政と宗教を何が何でも分離しようとするから、そのような施策が正当化されるのだ、と教えられました。なるほど。イスラムに対する差別ではなくて、あらゆる宗教的なものの排除なわけですね。ですから、たぶん、十字架とか仏像とかも同様に、公的な場面で陳列することは禁止されるのでしょうね。ある意味、フェアな扱いなのかもしれません。
この原則は意地でも貫き通す、というのがフランスの信念だったのかもしれません。しかしそんなガバナンスって、democraticなんでしょうかね?
宗教が統治に介入することがundemocraticだからライシテを固持することがフランスにおけるdemocracyの必要条件だ、という主張も判らなくはないです。まぁ同様に、選挙で代議士を選出できることだとか、発言等の自由が担保されるだとか、いろいろな必要条件をdemocracyに課すことはできるでしょう。
しかし、それらの必要条件をdemocraticに定める必要性はないのでしょうか?
これを言い出すと無限の相対化と循環論法に陥る危険がありますし、それこそ恐怖政治でさえdemocracyだという帰結につながりかねません。とはいえ、democracyの定義を教条主義で神聖化することは、その定義を行う人々による一種の独裁を許容することになります。
結局、ゼロかイチかの議論をしても埒は開かず、democracyの定義に適度な再帰性を持たせる(実際、人間が創出した概念で再帰性がゼロのものなど、この世に存在しませんが)ことが必要なのでしょうが、その再帰性のレベルをどの程度にするのか、そして具体的にどういう仕組み(熟議、闘技・・・)でそれを実現するのかという、メタレベルのdemocracyについて実用的な議論が必要になってくるのだろうな、と思うわけです。
うーん、頭がパンクしそうなので、ここらへんで止めておきます。