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2009年6月23日

「サイレントマジョリティ」の意味

社会的合意形成の話をしていると、「サイレント・マジョリティ」というカタカナ言葉を使う人にしばしば出遭います。何か論争が起きると、概して「声の大きな人」が目立ち、それを傍観している大多数の人々の意見は目立たない、という考え方があって、そういう大多数の人々を「サイレント」(声を出さない)「マジョリティ」(過半数の人々)と呼ぶのです。

そのような現象が実際に一時的に発生する可能性は十分にあります。大多数の人々が意見を表明する手間を惜しんで、何もしない状況は考えられなくはありません。また、マスヒステリーに近い状況では、懐疑論を出すこと自体がタブー視されるのでしょう。しかし、本当に過半数の人が何か共通の意見を持っているのであれば、政治家なり、メディアなり、何か目立ちたいと思っている人々が、その機会をとらえて、世論として表出させることが、表現の自由がある程度確保された国家であれば、当然の結末のようにも思われます。ですのでサイレントマジョリティなど(長期的に考えれば)理論上、存在し得ないことのようにも思われます。

しかし、この言葉の本当の問題は、サイレントマジョリティなるものが存在するかしないかという議論ではなく、その言葉そのものが持つイメージにあります。

一般的に、silent majorityという言葉を最初に広めたのは、リチャード・ニクソンだと考えられています。反ベトナム戦争の学生運動への抗弁として、そのような運動に参加しないsilent  majorityがいるじゃないか、と彼はのたまわったわけです。また、岸信介も、安保闘争に対抗して「声なき声」、すなわちsilent majorityの存在を主張しました。

つまり、「サイレント・マジョリティ」という言葉を使うことで、「私は右派ですよ」「私はタカ派ですよ」と宣言しているようなものだと思います。そのような発言をする人が、そのような背景を意識しているかどうかわかりませんが、少なくとも、背景が知っている人であれば、そのような印象を持たざるを得ません。

いわゆるサイレント・マジョリティという人々が存在するかどうかはともかくとして、そもそもこの言葉を使うことについて、もう少し考えてみたほうがよいのではないかと、常日頃思います。もちろん、背景までよく考えた上で、この言葉を使う人については、それなりに尊敬できますが、何も考えてない人については、困ったものだな、と思わざるを得ません。


カテゴリ: Public policy — Masa @ 10:07 PM