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2013年11月4日

沼津高架化PI委員を終えて

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本日で沼津駅高架化に関するPI(public involvement)第三者委員会(沼津駅付近鉄道高架事業に関するPI委員会)の最終回を迎えました。もしかすると今後もフォローアップの委員会はあるかもしれませんが、PIという活動はこれで完了のはずです。

以下、委員会を終えて、個人的な考えをまとめさせていただこうと思います。

まず、小職の反省としては、当初、自分は、もう少し利害調整に軸足をおいた活動になるだろうと想定していました。しかし実際に対話が始まってみると、「そもそも、まちづくりはどういう方向へと向かうべきか」という価値観に根ざした意見の相違が、小職の想定以上に、論争の中で大きな割合を占めていたようです。大型投資による発展か、限られた資源の中で小さな幸せか、自動車依存の郊外型か、公共交通依存の都市集約型か・・・うまく説明できないですが、そういう「全体としてどっちへ向かっていくべきか」について、かなり根深い意見の相違が背景に存在し、しかもこれがけっこう、議論に影響したように思えます。だからこそ対話によって計画案を一本化できなかったのでしょう。

とはいえ、このような価値観に根ざす意見の相違は1年程度の対話で一本化されるはずもありません。むしろ、長年にわたる継続的かつ多面的な議論を経ながら、綿々とアメーバのように変容していくものです。こう言うと「やっぱしPIは時間の無駄だったんだじゃないか」という声が聞こえてきそうです。確かにそれも一理ありそうですが・・・2年前に「4案」が具体的に見えていた人はいますか?価値対立の部分はそう簡単に解消しませんが、利害関係の整理については、PIの活動によってかなり整理が進んだはずで、その結果が、4つの推奨案候補と言えるでしょう。

また、逆説的ですが、本質的な価値観の対立があるなかで、お互いの意見に耳を傾けるcivilな議論が「勉強会」という場において成立したこと自体、この事例が、熟議(deliberation)を実践できた事例として高く評価できるでしょう。計画案の一本化には至ってないですが、事業の賛否とは全く異なる新たな軸で、「賛成派」「反対派」ともに否定しない4つの共通理解(PDF)ができ、それを文書化できたことにも、一種の熟議として、大きな意味があります。

またほかにも、抽象的な対立から具体的な4案へと絞り込めたこと、より幅広い市民を巻き込めたことなどは、成果として誇れるものかと思います。

さて、今後、4案をどうするかですが、これ以上地元の関係者のみなさんが議論しても全員が納得することなど不可能でしょうから、政治が線引きしてあげるしかないのでしょう。線引きすればどうしても短期的に敵味方をつくりますが、逆に、必要な場面でまったく線引きできない政治家は社会全体を敵にまわすことになります(もちろん、頼んでもいないのに敵を明確にすることで仲間を増やす政治家が昨今増殖しており、合意形成を試みることなく、何でもかんでも政治問題化して自身の権力増大をねらう政治家は困り者ですが)。ということで、大枠についての方向性が遅かれ早かれ政治的に明らかになることを個人的には期待していますし、そうなることが均衡解だと思います。

で、大枠が固まったあとの流れですが、大枠を再度ひっくりかえそうとするようなことは、地元のみなさんは、やめたほうがいいと思います。

高架をやるか、やらないか、これからどっちの方向に転ぶのかは現時点で小職全く見えませんが、やるならやる、やらないならやらないで、その枠のなかで腹を括ってみんなやるべきことがあるでしょう。高架にするならするで、建設費の最小化と投資効果の最大化のために、いろんな視点から工夫とアイディアが必要です。高架にしないならしないで、駅の南北アクセス問題や街の活性化のための対策が必要です。そんなこんなで、ある程度の諦観のなかで、コツコツと、敵味方なく、問題解決をやっていかざるを得ないわけです。

もめごとが続いて関係者全員が損をする状況のことを、(Win-Winの正反対で)Lose-Loseといいます。Lose-Loseを続けていたら、昨今の都市間の過騰競争のなかで、沼津が置いてきぼりを食らってしまうでしょう。大枠が決まったら、Lose-Lose脱却のために、関係者一同踏ん切りをつけて、協力する必要があるのです。

しかしまた、背景に存在する、都市のあるべき姿についての意見の相違をなおざりにするわけにもいきません。これから、気候変動だの、自然災害だの、経済のグローバル化など、いろんな「リスク」が想定されるなか、どういう街になればsustainableなのか、そういう大きな議論をしていく必要があるでしょう。Lose-Lose回避のための問題解決に現場が集中できるようにするためにも、こういう大上段の議論を引き取る「場」が別途必要です。このためには、熟議(deliberation)の観点から、時間をかけて、あるべき沼津とはどういう街なのか、幅広に議論する場を継続的に設けていく必要があるでしょう。熟議を実現するためにはいろいろな手段がありますが、いずれの手段であれ、特定の事業を念頭に置いた従来のPIとは大きく異なるものになるでしょう。言うまでもなく、高架事業とは切り離して、時間の余裕をもって、かなりノンビリと行うべきでしょう。ただし、原地区については、東海道本線沿線ではなく地域全体の問題へと大きく再定義できれば、熟議でなんらかの道筋をつけられる可能性があるかもしれない、と思います。

こういうと、最初からPIを熟議形式でやっていればよかったのではないか、という意見も出てくるでしょう。しかし、熟議の(ある意味で)祖であるHabermasは、ideal speech situationといって、利害のしがらみにとらわれずに議論できることを重視しています。高架化・貨物駅移転に賛成か反対かという二項対立が着目されるときに、いきなり熟議のような仕掛けをいれてもうまくいくはずはありません。むしろ、今回の高架化の件(そしてそれに付随する諸々の件)はいったんおいといて、あらゆるしがらみから解放された状態で、都市の未来像についての熟議を仕掛けていく必要があるのです。

ということで、結論をまとめると、0)政治等の判断によって大枠が固められた上で、1)駅高架化関連については(地域づくりと問題を再定義しつつも)迅速な利害調整による問題解決へと集約化する方向で進みつつ、2)都市に関する価値観についても並行して熟議を進める、というそれぞれの流れを大きく形作っていくことが、今後の沼津に求められているのかと思います。

また、何はともあれ、今回は、参加者、県職員、関係者のみなさんが大変ご尽力されたことが、これまでの成果につながっていると心から思います。生意気なことを上で書いてきましたが、現場にそういうパワーのある方々がいないと、計画なんて結局は「×0」ですべて台無しになってしまうので、現場のみなさまには、本当に頭の下がる思いです。


カテゴリ: Negotiation,Public policy,Urban planning — admin @ 9:31 PM

 

2013年9月13日

インドネシアは「熟議」の国だったらしい

何気なくスカルノの歴史を読んでいたら、インドネシアという国がdemocratic engagementを信条としていることを知って驚いた次第。今後リサーチが必要とはいえ、気づいたことをメモ。

インドネシアには建国の5ヶ条なるものが存在し、パンチャシラ(Pancasila)と呼ばれているそう。そういえばインドネシア出張時にもこの単語は何度か耳にしたな。で、現状の5ヶ条ではなく、スカルノが1945年に発したバージョンのPancasilaでは、

3. Musyawarah Mufakat

が第3条だったそうです。英語に訳すとdeliberation-consensus。熟議を尽くして、コンセンサスに達すること、とでもいうのでしょうか(日本語のwikiだと「民主主義」と訳されているようですが、たぶん「熟議」や「討議」のほうがよいかと)。

なお、現在では若干修正されて、第4条に、審議(PERMUSYAWARATAN)と代表(PERWAKILAN)の知恵による民主主義(KERAKYATAN)、みたいなフレーズが盛り込まれているようです(※インドネシア語は詳しくないので、間違ってたらゴメンナサイ)。

いずれにしても、Musyawarah Mufakatという概念はインドネシアでは歴史的に存在しているようで、これをアジアの合意形成のひとつの形態として捉える必要がありそうです。

こんな論文も見つけました。

Consensus and Democracy in Indonesia: Musyawarah-Mufakat Revisited- Discussion Paper No. 308 – Institute of Developing Economies.

ざっと読んでみましたが、今度よく読んでみて、追跡調査したいと思います。


カテゴリ: Negotiation,Public policy — Masa @ 10:00 AM

 

2013年8月1日

「足下を見る」の語源から、足下を見られない術を考える

ふとしたことから「雲助」という言葉を調べていたら、どうやら、筋の悪い人足である雲助が、客の足下を見て、草履が切れて歩けない状態だったときに高額の籠の料金をふっかけた、というのが「足下を見る」の語源だそうです。

交渉学のセオリーでは、足下は絶対に見られないように注意を払うべし、といわれています。足下を見るような奴のほうが悪い、という規範もあるでしょうし、確かに足下ばかりみるような人は自分も嫌いではありますが、それ以前の問題として、自ら足下を見られるような状況に陥らないように心がけることもまた、社会人としては必要なスキルなんじゃないかと思います。

交渉分析では、ここでいう足下のことをBATNAと言います。交渉を決裂させたときに自分がとりうる手段です。もし、あなたが旅人で、草履が擦り切れてしまった状況で、人足と籠の料金の交渉をするとしましょう。ここで、あなたが人足との交渉を決裂したとして、どうすれば次の宿まで移動できるでしょうか?いまいる宿に、交渉相手以外にも多数の人足がいるのなら、他の人足により安く依頼する可能性もあるでしょう。あるいは草履を買って、自分の足で移動できるかもしれません。他にもいろいろな手段はあり得るでしょう。しかし、いまいる宿にいる人足が雲助ひとりであったり、草履を売ってなかったりしたら、雲助に法外な値段を払う以外の手段が閉ざされているということです。

もちろん雲助は困り者ですが、いちばんいけないのは、擦り切れるまで草履を履きつぶしてしまい、雲助以外に移動の手段を失ってしまったあなたとなります。ですからこそ、そういう事態に至らないように、つまり最悪の手段しか残っていないという状況に陥らないように常に注意することが、交渉のセオリーでは重要だと考えられているのです。長旅には予備の草履をもっていくとか、事前に安全な人足のいる宿を確認しておくとか、そういったリスクマネジメントが必要なのです。

足下を見るような奴が悪い、というキャンペーンも大事ではありますが、同時に、自分が足下を見られることがないよう、常に注意しておく必要もあるでしょう。


カテゴリ: Negotiation — Masa @ 4:58 PM